「会津中街道」を歩く
・矢板から百村まで
 日光北街道と会津中街道の分岐にある道標を、出発点とする。
道標には、右 日光、左 江戸と書かれている。ここから北に向かって歩き出す。
耕地整理の済んだ中の道は、唯直線で面白みがないが、山並みを眺められるのは、楽しい。
左から、日光の男体山 女峰山 高原山 男鹿山塊 三倉山 大倉山 流石山 一番右は
那須の山である。この会津中街道は那須と流石山の間の「大峠」1468mを越えるので
ある。まもなく街道は県道30号に合わさる。県民の森の標識が現れたら、右側に長屋門
の立派な農家の家が二軒ある。門の前の道をぐるりと回るように田圃の中の道を歩くと、
(内川)に出る。木戸崎橋を渡ると墓地がある。忘れ去られたような小さな「相対道祖神」
があった。道は左に曲がりすぐ右に曲がる。高原山が裾野を広げて美しい。
道は見通しの悪い十字路に出る。まっすぐ行くと山田である。左に行くと東泉に行く。
街道は左に100Mほどいくと青い屋根の家の前に、細い道がある。ここに「旧会津街道」
と記した木の道標がある。雑木や杉林のなかの道である。馬が歩いた道だけにしっかりと
している。矢板付近ではこの2kmほどの山道が300年前のままの、状態で残っている
貴重な街道である。林を抜けると田圃に出る。すぐそこに「一里塚」がある 江戸から3
6里と書いた標柱がたっている。対にはなっているが整備されすぎてちょっぴり残念な気
持ちがする。人里から離れているせいか、ゴミの不当投棄が多すぎる。
ここから舗装道路を歩くが、昔の道も同じらしい。坂道を上りきったあたりから、左手に
それらしき道の形が現れた。坂を下れば山田である。丁字路の所に「会津中街道」開通3
00年記念の標柱がある。道は左に曲がる。まもなく山田の宿で公民館の近くに、矢板市
の天然記念物の千年かや(樹齢700年)がある。ここは問屋(御本陣)の跡で昔、江戸
表参勤交代道中の会津の殿様が、宿泊した所だそうです。もう一つ有名なのが、1864
年、武田耕雲斉率いる天狗党一行千数百名が泊まったことである。
大きな道路に突き当たるが、泉からの道である。正面の杉の森は山田城の跡である。
街道は右に曲がる。ここにも会津中街道の標柱がある。切りどうしの両側には、沢山の石
碑が並んでいる。田圃の向こうは那須野が原である。那須の山 大倉山 三倉山の山々は、
まだまだ遠い昔も今も景色は同じ、旅人はアァ!と溜息が出たことだろう。
田圃の中の道を行くと、「箒川」の堤防に出る。下流に架かる国道4号線の橋まではかな
りあるので、冷たいのを我慢して裸足になって渡渉する。昔は今と違って水量も多く大変
な思いをして渡ったのだろう。藪の中にカメラのキャップを落としてしまった。
箒川を渡れば「下石上」ここから「上石上」までは田圃道と、途中まで国道4号線を通る
道とに分けられる。排気ガスの道は歩きたくないので、田圃道を行く事にする。
高原山と塩原の奥の山が、良く眺められて歩きやすい。
 農家の裏から田圃に出る道には、数多くの「馬頭観音」があり、信仰心に心打たれる。
途中、石上の問屋小野崎家一族の石上神社があった。  田圃道から家並みのならんだ、上
石上の宿の通りにでる。ここは塩原街道で尾頭峠越えの道でした。

尚 国道4号線「下石上」より「上石上」まで歩いてみたが、車の排気ガスを気にしなけ
れば、見るところは多いと思います。馬頭観音 地蔵尊 等の石仏に、興味のある方は
楽しめる街道です。4号線と塩原街道の分岐には大きな石柱が立ち、三方に東京街道 奥
州街道 塩原街道と記してあります

上石上は昔のたたずまいのまま残されており、広い屋敷、年輪の古さを感じさせる庭木

その雰囲気に圧倒されそうな気持ちでした。塩原街道を北西に進むと、上石上のはずれに
でます。桜の大木のしたに「寒念仏供養塔」が自然石に刻まれ(右 なすゆ あいつ 左
 塩原みち)が建っています。高原山もここで見納めです。ここからは那須の山を目指し
て歩かなければなりません。細い道ですが道はしっかりしています。最初は農家や開田し
た田圃 新興住宅地などを見ながら歩きますが、だんだんと林の中へ入って行きます。
杉 檜 雑木の落ち葉の敷き詰めた道が、続いています。大貫と三区を結ぶ道路を、横切
るとすぐ、塩原町史跡の一里塚があります。東側のは崩れて小さくなっています。
西側は高さは2メートルほどあり、説明書きには1695年に作られたことや、所在地は
塩原町下大貫1114など書いてあります。雑木林が続いていますが、所々に道が分かれ
ます。北へ北へと向かって歩きます。水道施設が現れると道路に出ます。上大貫と三区を
結ぶ道です、そばには日帰り温泉の(長寿温泉)があります。
道路際には会津中街道と刻んだ道標が立ち、道は北に向かっています。
これから先は、明治時代に開拓が進み、街道はどこをどうなっていたかわかりません。
唯 四区町在住の岳友「久保 周二君」の実家の庭に(右 石上日光16り、江戸36り
 左 佐久山3り 水戸20り)と刻んだ道標がある。
那須野が原公園のプールの北側には、街道跡があるので、多分西那須野、塩原IC付近か
ら、赤田調整池を通っていたのだと思います。

ここで此の「会津中街道」を歩く時の交通関係を書いておこう。
マイカーを使用するのが一番良い方法だとは思いますが、一人で歩くときは、出発点に戻
る不便がある。二人以上の時は一台の車を終点に置いておけば、面倒さもありますが、行
程は、はかどります。公共のバスを使用するとなると、過疎化の時代です、バスを廃止し
た路線も多いので充分に調べてから歩くようにしましょう。
野崎駅から石上へは、大田原市営バスが本数はすくないですが走っています。
西那須野駅から赤田へはJR関東バスを利用出来ます。高林へは黒磯駅から黒磯市営バス
が走っています。ここも本数は少ないです。百村へは黒磯駅から東野バスが便利です。
停留所は「松原」下車です。

 西那須野駅から JR関東バスに乗り赤田で下車、高速道路沿いの道を歩いて那須野が
原公園の東口に向かう。分譲地内の道路を、プールの見える所を探して歩く。
雑木林の中に、会津中街道跡はあった。那須野が原ニュータウンの分譲地の中に、舗装の
所や砂利道や草が生い茂った所など変化はあったが、北東に向かって真っ直ぐな道が、続
いていた。分譲地から離れると雑木林の静かな道となった、笹が茂り、朝露でズボンはび
っしょり。最近は木の葉さらい(堆肥)を作る人が居なくなったせいか、どこの山も荒れ
放題、近い将来 山の味覚「キノコ」はどうなるのだろう。
人家が現れると横林小学校の前に出た。校門の直ぐ横に「会津中街道」の小さな石碑が建
っている。前の道路は県道259号線で右にいくと接骨木を経て西那須野町に出る。
左に行くと横林の宿である。宿の中ほどにある分岐点に道標があり「北たかばやし 西せ
きや だけ山 南大田原 東はつたち」 500mぐらい北に歩いた所の、杉林のなかに
、供養塔がいくつか並んでいて、そのなかのひとつに(左やまみち 中せきやみち 右や
まみち)と読めたが本当はどうなのか?昔はこの林の中が道かも知れないと思った。
那須疎水の流れる近くに横林の「一里塚」があった。注意して歩かないと、通り過ぎてし
まいそうな藪の中にある。右の塚には三角点(347m)があり、平成5年に一里塚の、
説明板が立てられた。左の塚は藪のなかに埋もれている。疎水を過ぎていくとまもなく、
馬頭観音がひとつ立っていて、そのさきに分岐点がある。ここにも小さい道標があり、左
よこばやし 右たかばやしが刻んであった。畑を横に見ながら砂利道を進むと林のなかに
入って行く。又 分譲地が現れ、庭先に繋がれていた10匹ほどの犬に、激しくほえられ
る。めったに人の歩かない道だもの、犬だって存在価値をしめさなければならないだろう。
蛇尾川の堤防にぶつかる、道は堤防を迂回するように北に向かっているが、産業廃棄物の
山らしきものが一杯ありそうなので、藪をかきわけ堤防を乗り越え蛇尾川に降りる。
那須野が原の地層は砂礫の厚い層と、那須山の火山灰の堆積から成り立っているため、水
に乏しく、此の蛇尾川も覆水流となっている。足場の悪い河原歩きをして、対岸に渡る。
これから高林までは、那須の山を見ながら田圃みちを歩く。那須の「空っ風」が吹き付け
る場所なのだろうか?どこの農家も防風林がある。高林の下の内で県道191号線に合わ
さる。右に行くと那須塩原駅方面である。左に曲がって行くと「高林宿」となる。丁字路
の左側に崩れかけた小さな「高林の一里塚」がある。塚には欅の切り株が残っている。右
側の塚は石蔵建築の際整地されたと、説明板に書かれている。
高林はかなり大きな集落で家並みが、街道沿いに続いている。高林寺を過ぎると、矢板、
那須線県道29号の高林十文字にぶつかる。十文字を渡ると「木綿畑本田 きわたばた」
になる。どの家も広い屋敷で防風林の太い切り株ばかり眼についた。犬を連れた散歩の、
人の話では、昔は大田原藩の領地で(菊池)家が多いんですよ、この間の強風でかなりの
家で、屋根が飛んだり、木が倒れたり被害がでて大変でしたよ。話が好きみたいで長話に
なってしまいました。家並みがとぎれると大師堂にでる。広場になっていて、地蔵様、供
養塔など沢山お住まいになっています。街道はここから右に曲がります。少し行くと
耕地整理の田圃にでます。ここからの眺めは最高で那須の山では白笹山 黒尾谷岳 南月
山 流石山 大倉山 三倉山 男鹿山塊では百村山 黒滝山 鴫内山など、ゆっくりと時
間を取りたいところです。前に農家が並ぶのは木綿畑新田で、街道は左手前方の杉の木立
を目指して歩きます。畑と農家の間に道を塞ぐように廃車した車がありますが、その脇を
通り抜ければ、広い道路に出ます。左に曲がるとすぐに、自然石の大きな念仏供養塔が立
つ分岐点になります。左はやまみち 右はもむらと刻んであります。
右に行くと又 忘れ去られたような分譲地にでます。壊れた街灯が立っています。
突き当たりが熊川ですが、河川改修の時に建てたと思われる大きな石に「会津中街道」、
と刻んだ道標が出来ていました。昔 歩いたときは難渋した所でしたが、今はスロープを
つくり安心して熊川を渡れます。渡った先はひどい藪ですが、街道跡は残っているので
感をたよりに歩きます。雑木林を抜けると広い牧草地になります。牧草地の中にお饅頭の
形をした、笹野曽里の一里塚があります。以前、塚の上に立てられていた標柱(史蹟一里
塚 黒磯町文化財)は畑に転がっていた。もう一基の塚は20mほど離れた東側の雑木林
のなかにあって、塚の上にはカヤの木などが、数本茂り、300年の時代を感じさせてく
れる。街道は牧草地と雑木林の境界にあり、非常に歩きづらい。仕方なく林の中を歩く。
浄水場のタンクには、すこし興醒めする。街道は浄水場の脇を通って北に向かう。
松の大木の下を通り、牧草地を左右に見ながら歩く。牧草地に大量の「牛糞」を撒いてあ
るのでその臭いに我慢が出来ないほどである。杉林の入口に綺麗な水の小川が、流れてい
て冷たくて気持ちがいい。  林の中は先日降った雪が残っていてあるくのには丁度いい
ぬかるみだったら苦労するだろう。このあたりにも分譲地の看板がある、誰が購入するの
か、顔を見たいものだ。一人旅は退屈なものだ、そんなことばかり考えながら歩く。
田圃に出た。百村山、黒滝山、鴫内山の眺めがいい。畦道に座ってお昼にする。
前回来たときは、猿の群50頭ほどに遭遇して吃驚したものだ。農家のわきを通り林の中
を過ぎると、百村と茅の沢を結ぶ道路にでる。右に曲がってからすぐ、左に入る山道があ
る。道標が立ちそこに、左木綿畑、大田原 右やまみち?がある
 まもなく百村宿に入る。百村新田の分岐には供養塔が立ち、海抜550mのせいか
 眺めが良い。道は広く整備されて昔の面影はない。あるとすれば光徳寺の杉並木が歴史
を感じさせてくれる。この参道を登っていくと百村山に至る、山頂付近にはカタクリが多
く、春には登山者で賑わうところです。この百村にも悲しい事件がありました。
木の俣隧道の共同作業中農家の人々が酸欠で倒れ、多くの方が亡くなりました。

家並みがとぎれてから、左に入る林道があり供養塔がひっそりと立っています。そこを過
ぎてから広い道路は右にカーブします。左に入る山道にミラーが立っていますが、これが
「会津中街道」です。山道をすこし歩くと供養塔が立つ分岐点があります。碑には「日記
念仏供養塔」左やまみち 右いたむろと刻まれています。この供養塔からすこし歩いた林
の中に、なにかいわくのある五輪塔があります。これから先はキノコ場と言われており
一里塚があります。小さい塚らしきものが幾つもあるので、大きいのを一里塚と、してお
こうか?先ほどの山道の方にも大きい塚がありますが、はたしてどちらが本物か?
キノコ場を過ぎると県道189号線に出ます。左は板室温泉へ 右は黒磯です。
これから先、板室宿 三斗小屋宿 大峠は次回のお楽しみにして、バス停松原でおわりで
す。