原街道その4 「東小屋〜石林〜平沢を歩く」 平成17年10月3日
東小屋問屋7時12分〜石林問屋10時53分〜平沢問屋2時00分 那須塩原駅で待ち合わせ、今回は白石、馬場両君が同行してくれる。今日の予 定は東小屋問屋臼井家をスタートして石林、平沢まで約16kmの行程である。 前回の槻沢の時にも話をしましたが、西那須野を通過する「原街道」は二つの コースがあったと言う。槻沢から薄葉、平沢?と石林から平沢とであるが、東 小屋からどう歩いたかは、はっきりしていない。私は地図を眺めながら一つの 仮定として今日の道筋を選んで見ました。面白い発見を期待したい。 大原間南の交差点から県道53号に、ブリジストンべカルト工場を過ぎて間もな く観音堂二つが立つ墓地があったので立ち寄る。偶然にも道標を見つける。 一つは右 日光山、左 大田原、もう一つは左 なすゆ 右 やまみち この二つの道標は以前からあったものではなく、道路改修等で集めたのではと 考えられ?安易な移動に警鐘を促したい。特に原街道の道筋では、槻沢と石林 がはっきりしていないので余計感じてしまう。 墓地のところから細道に入る。曲がりくねった道を辿ると、「蛇尾川」の堤防 に突き当たる。送電線が蛇尾川を横切る箇所に道路不通の看板があったが、裸 足になり川を渡渉する。対岸は「東関根」 以前歩いた時に道標をみつけたの で確認の為寄り道する。「愛宕神社」の小さな森に二つの道標があった。 馬頭観世音(文化7年(1810))「右 なすゆ 〇〇〇 左 い〇〇お」 と判 読できた。もう一つは二十三夜塔に「右 なす」と読める。 一度「小学校前踏み切り」まで戻ってから、ライスラインを横切って「アジア 学院」看板の道を進む。坂を下り乃木農場を過ぎると道路拡張工事の真っ最中。 正面の森が「乃木神社」で境内の裏の森から「乃木の清水」がコンコンと湧き 出ている。乃木別邸の反対側には石林宿の問屋「磯家」が現存しているが河川 改修の為家屋は新築中であった。那須野が原、飲み水の少ない当時としては、 石林の問屋の立地条件は最高の場所であったろう。まもなく道は丁字路になる が道路の角に「左 しおばら、右 ゆもと」の六十六部の道標がある。 信号機のある交差点を過ぎてから「雑貨ぶんご屋」前の道を右に行くのが原街 道であるが、「宝暦4年、1754」の頃は「小高家」が石林宿問屋でこの付近に あったと言う。国道400号を横断して街道は真っ直ぐ南に向かって一直線! 新設の400号を過ぎてやがて下永田からの道が合わさる。「親王台2.7k」の 道標どおりに右に行く。国道461号を横切り実取地区へ、芭蕉も通った「日光北 街道」に出たら右に曲がる。「なんじゃもんじゃの木」を過ぎると、角に 南無阿弥陀仏の道標がある。下の文字は隠れているが「右にっこう、左ひ〇〇」 左ひらさわと推測する。土手の彼岸花が満開の街道を行くと、ライスラインを 横切る。寄り道であるがここは近代的三角測量那須基線の南点で「観象台」と 言われ三角点と説明板がある、北点は千本松にあってその距離は10kmである。 街道に戻って歩くと間もなく平沢の集落になる。「平沢公民館」の前に元文5年 (1740)の道標があり、「右大田原、左石林」が刻んである。道路を横切ると 河岸段丘の上に「平沢宿問屋渡辺家」があった。箒川の対岸に将軍塚、そして 高原山を眺めながら今回の街道歩きは終了する。ここから野崎駅まで歩くこと になるが、運良く途中で宮内氏に拾われ疲れた足に感謝、感謝である。