日光北街道 (1)今市〜船生
元和2年(1626)徳川家康が死去してから久能山より日光東照宮に改葬。寛永13年(1635)
造営をすべて完了したが、これにあわせて今までの街道を改修したのが日光北街道である。
日光北街道が何時ごろ開かれたのは不明であるが、古くは「棚倉街道」と呼ばれ、日光、
今市と棚倉、白川などが結ばれていたらしい。「日光道」「日光街道」と呼ばれるように
なったのは「東照宮」造営後の事で、東北大名30数藩が「参勤交代」時に日光社参が出来
るようにしてからである。日光北街道は奥州道中(奥州街道)大田原宿より、矢板、玉生、
船生、大渡を経て日光街道、今市宿まで「11里31町」の短い脇街道である。参勤交代時に
大田原から日光経由して江戸に上がるか?帰藩の際に参拝してから奥州道中に下るか?の
場合の近道であった。元禄11年(1689)芭蕉が奥の細道を旅したのもこの街道であるが改
修が進んで、旧街道の面影を辿るのは難しい。しかし船生から矢板間は一部が改修されな
いまま残っているので、歩く楽しみは倍加するかも知れません。
《今市宿から玉生宿》      平成18年2月15日
下今市駅7:12〜会津西街道入口7:34〜日光北街道追分8:02〜芦沼一里塚8:42〜舘坂
11:11〜大渡11:41〜鬼怒川11:57〜船生13:25〜芦場新田14:49〜玉生15:24 矢板から
高徳までバスに乗り、下今市駅まで東武電車を利用する。駅前から案内に導かれ人気の無
い朝の「報徳二宮神社」と「如来寺」を参拝する。国道119号線に出てから日光方面に少し
歩くと、左側に「今市町道路元標」が建っている。ここが会津西街道、日光北街道の追分
で道の反対側に「会津西街道相生通り」の標柱がある。狭い道を進むと左に曲がり坂道を
下って国道121号線(会津西街道)に出る。東武線のガードをくぐると右に「回向院」があ
り、「戊辰戦争の土佐藩の墓」がある。間もなく左側に旧街道の細い道があるので入って
いくと直ぐ「大谷川」に飛び出る。日光の山々を眺めながら大谷橋を渡る。橋の袂に公衆
トイレが有るので記録しておこう。信号を右に行くのが旧街道で店を閉ざした薬屋の年代
物の看板が素晴らしい。大谷向駅を過ぎると「会津西街道」と「日光北街道」の追分で
「右大田原 左会津」の道標が建っている。東武鬼怒川線の踏み切りを渡って国道461号線
に入る、豊田、芹沼、轟、大渡、船生にかけては特に石仏が多く、信仰心の厚さに感動も
のの街道である。倉ヶ崎新田の道を左に分けると国道461号のバイパスに突き当たる。信号
を左に曲がると「愛宕神社」があり、大型店が並んで昔の面影は見ることは出来ない。芹
沼の十字路の所に「大きなわらじ」がぶら下がっていて傍の説明板には「この部落にはこ
れを履くような大男が居るので近寄るな!」と魔除けの由来がかいてある。五街道分間絵
図面では芹沼には「一里塚」の記号が書いてあり、小高い盛り土がその塚の跡なのだろう?
周りの石仏の二つには道標を兼ねて「右日光 左鹿沼」と刻んである。芹沼には小さな観
音堂と石仏が何箇所もあって足が遅々と進まない。余り見られない石仏があったので畑仕
事のお年寄りに尋ねると「あたごさまだよ!愛宕神社あったんべ〜〜。」と言われた。
芹沼の大銀杏(推定樹齢250年)を見物してから、大わらじの下がった浅間神社の急な階段
を奥の院まで登ってみる、山頂の木立の間から男体山、女峰山が眺めることが出来た。
まだ2月だと言うのに今日は4月並みの気温でバテ気味、轟小近くのコンビニで買い物をし
て少し休憩。「轟」と言う名前に「轟先生」の漫画を思い出す。舘坂の入口に「轟城址」
の説明板があったので寄り道するが、目印も無く行過ぎたようなので戻ってから、それら
しき民家の裏道を入ってみると、四方に高い土塁と深い堀の「轟城址跡」があった。年代
は不明の城であるが、地元の轟小学校校歌の一節に「長き歴史の古城下に祖業のあとをし
たいつつ」と歌われているという。街道に戻って舘坂を下ると「曲沢」を渡る、松の木の
根元に赤い帽子のお地蔵様と幾つかの石碑がある。欅の大木を左に見てしばらく行くと信
号機のある丁字路に着く。大渡宿の入口で角に貴船神社があり、右に曲がると直ぐに「仮
本陣、問屋の大貫家」である。尚後半には「問屋手塚家」もあったとお年寄りに話を聞い
た。宿場の中ほどには石碑が並び往時の雰囲気を偲ぶことが出来る。宿外れの道標には
「右宇都宮、左白川」があり、左に曲がるとCMで御馴染みの「東照温泉」である。真っ直
ぐ進むと鬼怒川で、船渡しした鬼怒川の河岸には「船場亭」というドライブインがあるの
で休憩するのに良い。「大渡橋」を渡ると突き当りが船生船場で左は鬼怒川温泉方面であ
る。「酒種まんじゅう」の看板に釣られてお店の中に入って味見をする、ほんのり酒の香
りがあって美味しい。船場には茶店が並んで旅人で大賑わいしたと言うが、河岸入口はバ
イパスの工事中で、石碑は邪魔物扱いで移動中(設置場所を考えて欲しいです)。船場か
ら新田、新谷までは道路が狭く歩道も無いので注意が必要!車の往来も激しいので歩行も
命がけ、船生の街中に入って一息つくことが出来る。醸造元「松の寿」を過ぎると「関東
バスの車庫」でここから宇都宮行きのバスが出る。郵便局が船生宿の「問屋手塚家」で昔
は宿場の中央を用水路が流れていたという。因みに演歌の作曲者「船村徹」はここの出身。
船生宿で手打ち蕎麦の遅めの昼食をしていたら予定のバスに乗り遅れ、仕方なく3時半ま
で歩くことにする。長峰、板橋、合柄橋(がっからばし)を過ぎると右手に幟の立つ
「船生歌舞伎」の建物が見える。バイパスと合流すると宇都宮大学演習林で、やがて芦場
新田の部落となる。「松川」が流れる付近には「一里塚」が存在したというがはたして何
処にあったのか? 塩谷町立幼稚園近くに「天下泰平国土安穏」の石柱と下部に「右大宮、
左玉生」がある。旧道は幼稚園の裏手の山裾にあったというが時間がないので次回にする
ことにして先を急ぐ。地蔵坂を下れば玉生宿で今日はここまで。
今市宿〜玉生宿 37.000歩