日光北街道 (2)芦場から矢板

 《芦場から矢板》   平成18年2月22日
芦場神社(9:30)玉生宿(10:21)サイカチ橋(11:27)倉掛(12:31)幸岡(13:34)
会津中街道分岐(14:30)   芦場〜矢板 23.000歩
 矢板駅から芦場新田まで通学時間を外したバスに乗る。塩谷町の幼稚園前で下車して、
寛永6年に建てた日蓮宗の「南無妙法蓮華経」の台座の道しるべを確認してからスタート
する。昔の日光北街道は山際を通っていたというので、まずは芦場神社を参拝する。鳥居
を潜った山中の細い道を辿ると、幼稚園の裏手から農家の庭先に出た。畑仕事をしていた
方に聞くと「そうだよ!これが昔の道だよ」と教えてくれた。断りも無く裏庭を歩くのは
失礼なのだが、道型が続いているので歩いてみた。「源義経の馬の蹄」の跡がついた岩が
あるというが何処にあるのだろうか?堀に一枚岩が橋代わりに架けてあるのがこれなのか?
橋を渡ると林道に飛び出る。右側に道標があって「右うじいえ、左大多ハら」と刻んであ
る。氏家と言う事は、これは会津西街道の阿久津河岸への道なのだろうか?笹薮で行く手
が塞がれたので国道461号線に出てから、酪農家の庭先から回りこんで見ると、牛舎の向
こうに街道跡がありそうなので藪をかき分けて辿ってみると、石材店の裏手にしっかりと
した道があり、林の中には青面金剛像が一基、年号は読み取れないが建立してあった。地
蔵坂を越えると玉生宿に入る。変電所裏の道を歩くが、どうも街道は山際にありそうなの
で出会った方に聞くと、「あの奥のお爺さんが詳しいから聞くといいよ」と教えてくれた。
庭にいたお爺さんに話を聞くと「家の屋敷のこの道がそうだ!あの藪の向こうもそうだ」
と言うので一枚写真を撮る。芭蕉通りの石碑の近くに「東 道下原荻の目金枝」「北倉掛
幸岡矢板」「南芦場船生今市」の道標がある。関東バスの駐車場の所に「芭蕉一宿の跡記
念碑入口」の看板に導かれて100mほど入ると笹薮の中に小さな記念碑があった。玉生家の
池を配した庭も今は荒れ放題!これでは宝の持ち腐れ、少しは手を入れて欲しいですね! 
鍵の手の道を真っ直ぐ行くと山城の玉生要害山で急な階段を登ると伯耆根神社がある。鍵
の手を曲がると塩谷町役場前の通りで役場の裏の方には昭和35年廃業の東武矢板線線路跡
がある。ガソリンスタンド脇の道を入って行くと、東に向かって細い路地が小学校方面に
続いている、小川の畔で仕事をしていた方に「ここは芭蕉が通った道ですか?」と聞くと
「判りません」と答えが返ってきた。突き当たりの通学路脇に「湯殿山、熊野山、男体山」
三基の石碑が並んでいる、大きな男体山の石碑に「右大田原」の道しるべが彫ってあるで
はないか?ここは間違いなく日光北街道なのだと思った。道は小学校裏手から墓地を抜け
ると道路に出る。水田の向こうは玉生中学校だ、校門前まで行くが関係者以外は立ち入り
禁止なので仕方なく戻って「梍橋」を渡り見当した場所まで歩くと、なんと!中学校方面
からの繋がりらしい道があった、一基の馬頭尊も見つかった。何処に続いているのかと道
なりに歩くと、田所入口のカーブの手前に出た。五街道分間延絵図によると、この付近に
一里塚が存在した絵が書いてあるが果たして何処にあったのだろう? 閉鎖したゴルフ練
習場付近の林の中にも街道らしき道型が残っている。旧道とバイパスが合流すると間もな
く矢板市との境界線で、高台に西国、秩父、坂東の供養塔が建ち「右大田原 左てら山」
の道しるべがある。ここは「上立場」と言われ昔は茶店があったと聞いた。
坂を下ると「立場」である、商店の脇の道を行くとコンコン清水の沸く「小山帰」の部落
がある。立場から先、蕎麦屋さんの前付近から右側の林の中に、古い道型が残っているの
でここを強引に歩くと林道に出たので右に折れる。まもなく道が三方に分かれる場所にな
るので注意して眺めて見よう。私有地の境界に沿って続いているのが「新道」である。旧
道は林の中に二本あるようだ、一番左が古そうなので倒木を避けながら歩いて行くとやが
て二番目のが合流して一本になる。この坂は「日光坂」と呼ばれ藪をかき分けながら進ん
で行くと新道が右下10mくらいのところに見える。やがて旧道はスパッと切れた崖となっ
て途切れてしまう、仕方なく新道に滑り降りる。新道は切通しとなっており、降りた所に
安政3年の「道供養」と「新路記碑」の碑が建立してある。昔は日光北街道の一番の難所
と言われた「倉掛峠」その改修の苦労が偲ばれる。旧道に登り返して「外出坂」を下って
行くと倉掛の部落にでる。「右日光道」の道標から100mほど登ったところの道路にでた。
火の見櫓を過ぎると倉掛バス停のある国道461号線で右に少し行くと民家の間に舗装され
た細い道がある、これが旧街道である。「戸方坂」を越えると「鞍掛松」で説明板が立て
てある。今は二代目の松が植えられている。国道461号を進んでいくと、「合会バス停」
がある、その先右側に造成地の荒地があるがそこが街道の入口となる。「東電電柱幸岡59」
が目標となる、藪を越えていくとやっと判るような道型が現われる。杉と荒地の間を足元
に注意しながら行くとだんだん道幅広くなってくる。下り坂になると薄暗い林の左上に二
体の石仏が安置してあるのが見つかる。道路を横断して「阿見石材店」の作業場の脇をい
くと「馬頭尊」があって国道にでる。ここは幸岡、国道は「簗目川」を渡るが橋の袂に珍
しい「橋供養」の碑がある。味噌醸造元を過ぎると幸岡(高内宿)の公民館前のバス停で、
旧道は左に登っていく。落ち着いた部落の中を進むと街道は左に曲がりながら坂道となる
がこれは新道であって、右に曲がる細い道が旧道である。坂道が余りにも急傾斜の為、改
修されたそうである。東北自動車道路を潜ると宮川の「かぶき橋」を渡る、次の川は中川
で街道は水田の中を進みカントリーエレベーター付近が会津中街道との十字路となる。角
に「右 日光、左 江戸」の道標が建つ。