原街道その5 「将軍塚から氏家まで」 平成17,12,10 将軍塚(7:55) 高月(9:30) 子安大神(11:20) 鷲宿問屋(12:10) 松島(13:08) 箱の森(13:55) 氏家宿(14:51) 原街道も年内には行程完了にしたいと意気込みを持った4人(白石、宮内、馬場、小林)が集った。 車を将軍塚前にデポして山頂を目指す。山頂の広場からは箒川の対岸に平沢宿問屋渡辺家が望まれ その向こうに那須野が原が広がっている。 矢板市豊田地区の県道52(矢板、馬頭線)の原街道分岐には「右うじえみち、裏右おおたはらみち」 の道標がある。街道は大日坂を越えると豊田地区に入り角の雑木林の中に「大日如来」が立ってい る。営農改善センターの脇には上屋敷墓地があり、そこには水田土地改良の際、集めたのだろうか 沢山の石碑がある。ここ豊田は「那須与一」の兄「那須九郎朝隆」の稗田城があったところで、水 田の中にポツンと記念碑がある。 原街道は高月を目指して水田の中を横切っていたらしく、二軒の農家の間に道跡が残っている。 山を越えると高月で県道25(矢板、烏山線)を横切る、間もなく墓地の中に建つ大日堂があったの でしばし休憩。県道25号を少し行くと東京電力の送電線のところに地元の有志が建てた「牛街道」 の木「道標」がある。白河から辿って始めて目にする言葉で興味津々。水田の曲がりくねった道は 「西江川」の橋を渡り、湯殿神社の前から山道に入る。林を抜けると「新溜池」が右手に望まれる。 間もなく県道48号と161号の交差点である。角に「右は佐久山みち、左は平沢みち」の道標(1742年) が建っている。河戸新田から48号線(大田原氏家線)を行くと、やがて上り坂となり墓地を過ぎる と百目貫の部落に出る。内川大橋を渡ると、「子安大神」のお堂がある。入り口に「地蔵泉」の水 場があって昔、馬子たちが喉を潤したと言う。 我々もお堂の縁側で早めの昼食とする。昔の街道はここから田圃のあぜ道を鷲宿の問屋裏に出たと いうが定かでないので、74号線(塩谷喜連川線)を鷲宿郵便局に向かって歩く。右手の「松岩寺」 は鷲宿城跡だという。まもなく鷲宿簡易郵便局だが、南側に廻ると立派な長屋門のある問屋村上家 だ。火災に遭い母屋は建て替えてあるが昔を偲ばせる建物で奥に土蔵が並んでいる。松島への街道 は少し戻って石仏の所から左に曲がる。やがて喜連川工業団地の「川崎三興化成」前の広い道路に 出るが、街道は「三菱自動車テストコース」の境界添えに続いているので、急斜面を登る。薄暗い 林の中を進むと明るくなって水田の道に出る。部落は松島でバイパスが迂回しているので静かであ る。48号線に出て荒川を渡る。箱の森新田を過ぎ一路南下すると「さくら市役所」を右に見て行く と奥州街道に行き当たる。宝永6年の氏家宿の地図にはこの先 裏道らしき道は描かれて無いよう なので、原街道は宿内を通ったものと推察する。 1/9 前回時間切れの為、再度訪れた。 光明寺10:55 薬師堂11:15 椿地蔵12:23 踏み切り13:10 船魂神社13:40 光明寺の裏手には「湧水地」があるらしいので寄り道したが「五行川」の水は涸れてゴミが散乱し ていた。新しく道が整備してあったので、町外れまで歩くことにする。「鶏権現」「千手観音」 「川原石塔婆群」「薬師堂」と見るものがあった。 奥州街道道標のある古町には、私の従兄弟「阿見勝央」が在住しているのでここから「阿久津河岸」 まで同行を願った。「阿久津河岸図」には米積街道(牛街道)が描かれているので、その道を辿る には奥州街道ではなく、大谷街道を行くのではなかろうかとあえてこの道を選んだ。間もなく「椿 地蔵」を右に見ていくと、水田の中に「祠」が一つあった。阿見氏の説明では「昔ここには首切場」 があったという。耕地整理の進んだこの地には昔の街道の名残はないので、神社の森をめがけて歩 いていく。「徳の宮神社」を過ぎ采女の街道を横断してJR宇都宮線「村境踏み切り」を渡る。 国道4号線を横断すると、ゴルフ場に行く手を遮られる。仕方なく遠回りして「宝積寺台地」を登る。 目指したゴルフ場の上から街道を見ると確かに道跡がある。近くの方に聞くと以前は広い道が采女 の方向に続いていたと言う。分譲の道路整備が進んでいるのでやがてはこの街道も忘れ去られてし まうのかも知れない。砂利道をいくと通行止めの標識があるが歩行には支障が無さそうなのでその まま行く。馬坂(懐坂)を下って行くと「高尾神社」の前に出た。県道125号線を横切り昔の道 「小荷駄道」を進むと「船魂神社」前に到着。白河から遥々の原街道(牛街道、米積街道、原方街道) の終点である。