一の倉南稜・初めての岩壁 小口 貴文 −失いかけた夏の日を− 「人は誰も心の中に失いかけた忘れられない夏の日を抱いている。」 小学校の頃の夏休み、午後のプールで思い切り泳いだ後、心地良い疲れと 共に緑の木陰に鳴くせみの声を聞きながら感じたあの爽やかさ。 高校の頃、夏の合宿で台風の中アルプスに登り、泥だらけになりながら下 山する時、台風が去った青空に輝く太陽の光を浴びながら感じたあの爽やか さ。 しかし大人になり、多くの現実の壁にぶつかりながらいつしか私は夏が嫌 いになっていった。というよりも燃える様な夏の陽の下でしぼんでいる自分 が嫌だった。夢も失いかけあの日の爽やかさはあまりに遠のいてしまった様 に思えた。 六年前、ふとしたきっかけから学校で山岳部を創る事になり、自分の技術 も磨かなくてはと山岳会に入会した。そして半年が過ぎようとしていた或る 初夏の頃、先輩の高橋さんから谷川岳一ノ倉南稜への誘いがあった。 本格的なルートへの憧れはあったが当時の私にとって谷川岳はあまりにも 遠い場所に思へ少し返事をためらった。しかしまるでハイキングに行くよう に誘う彼の言葉と、大柄な体から発せられる何とも言えない雰囲気に思わず 行く気にさせられてしまったのである。 出発の当日、私はガチガチに緊張し、高橋さんの車はまるで護送者の様に 思えた。翌日の朝、初めて一ノ倉の岩壁と対面したが、黒く圧倒的な威圧感 で迫る岩壁は、あまりに小さな自分の存在を思わせるが如く聳え、私はただ 完全に山に呑み込まれている事を実感するだけであった。岩壁から目を逸し 高橋さん、稲葉さんの後を追いテールリッジを詰め、南稜テラスに立った時 ようやく壁を見上げる事が出来た。そこにあったのはホールドが豊富なゴツ ゴツとした岩肌だけで、あの威圧していた壁はどこにもなかった。 「じゃあ行くか。ハーネスは付けたね。稲葉さん、確保よろしく。」力強 く高橋さんが岩を登って行きやがてチムニーの向こうに姿を消し暫くすると 「ビレー解除。登って来い。」とコールがかかった。しっかりと岩を掴むと 全身に力が入るのを感じ、足が地面を離れると激しく震え出した。懸命にホ ールドを探し、時にはハーケンを掴み頭は真っ白になりながらただ夢中で岩 を攀じた。とにかく夢中だったので、岩の形がどうだの、回りの景色がどん な風だったのか等は全く覚えていない。ただ高度が上がるにつれ、胸の鼓動 が激しくなって行った事だけははっきり覚えている。やがて最終ピッチとな り、核心部の垂壁にへばり付いた。細かいホールドに緊張させられながらも 体を押し上げ、最後に全身を伸ばしやっと届くガバを掴みテラスに転がると 高橋さんの使い込まれたシューズが目に入った。 「ここで終わり。後は下るだけだから。8環は使えるよね。」 高橋さんが」にこやかに語りかけて来た。 何回かの懸垂の後、再び南稜テラスに降り立った私達はその後駆ける様に 雪渓を下り一ノ倉出合いに着いた。そこで改めて見上げた岩壁は、とても大 らかに私に懐を開けている様に思え、朝、説明を聞いてもそれ所ではなかっ た私はその時初めて衝立岩や、滝沢スラブ、登ったばかりの南稜を理解する 事ができた。 「水上にいい温泉があるから休まず行こう」ご褒美をくれる様に高橋さん が言う。森の中からは「シャーシャーミーン」と春セミが鳴き、私は得意気 に先頭を歩き出した。するとなんとも言えない爽やかさが込み上げて来た。 何だろう?これは。そうだ小学校の頃のプールの帰りや、高校の頃の夏合宿 で感じたものと同じ爽やかさだ。新しい世界に一歩踏み入れた喜びと、必死 になって何かをやり遂げた後感じる爽やかな思いだ。失いかけた私の記憶の 中で、あの夏の日が再び甦って来た。 追記 千九百九十八年の夏、各地で大雨による災害が相次いだ。冷夏のこの年は 私自身満足な登攀が出来ず、もんもんとした日々を送っていた。その様な時 無性に思い出されたのは一昨年の夏に登攀した、剣岳八ツ峰Cフェースであ る。確かにあの時は台風が来ていたり、下降点を間違えてヴィバークする等 大変であったが、今となってはとても楽しい思い出となっている。今年の夏 は湧き上がる入道雲を背に胸踊らせながら岩を攀じたい。まぶしくギラギラ 輝く太陽で、透明な緑の風にたたずむ山頂での、至福の一時を目指して。