キナバル山

                            蓮寛 淳夫

 キナバル山にて(左から蓮寛、稲葉、東)

   ロバの耳の名を持つ巨大な岩の後方が紅く色付き始めた。全天に散らばっ

ていた星は、すっかり姿を消している。つい先程まで輝いていたサザンクロス

も、登る方向に確認できていた寒北斗も、朝の光のベールを纏ってしまった。

  熱帯雨林を覆っている雲海が凹凸の表情を現し始めた。

  何処で体験しても、夜明けの短時間における雲と空の変化は、登山の喜びを

増幅させてくれる。未だ眩しくない太陽に正面切って迎え合える一刻程、充実

感を味わえる時はないだろう。

  昨夜、三三〇〇メートルの標高にあるラバランタ小屋に泊まって、午前二時

に起床し二時半の朝食後直ちに出発して来たのだった。当然ヘッドランプ着用

だ。しばらくは急な樹林帯を登り、ワンピッチで森林限界に出た。頭上、雲一

つない星空が広がっている。

  サヤサヤ小屋を過ぎて、四〇〇〇メートルあたりまで登ると、ヘッドランプ

の灯りなしで登れるようになった。

  北緯六度とはいえ、四一〇一メートルの山頂は肌寒い。岩の窪みの水が氷っ

ている。幸いにして、無風の状態が続いてくれているので、御来光を余裕を以

て眺め得た。何度も何度も、太陽に向けてカメラのシャッターを切ってから振

返ると、雲海の上の影キナバルが鮮やかだった。こんなにきれいなのには、影

富士を見て以来暫く接していなかったから、感動の輪を一つ余計に得た気分に

もなった。

  一昨日、椰子の果汁を一個分飲んだり、小さな蟹穴の沢山ある柔らかい砂地

の海岸で泳いだりしたが、その海岸線もはっきり見下す事が出来た。四〇〇〇

メートルを越す山頂から海を見た経験は、これが始めてだった。

  ボルネオ島の東マレイシア・サバ州にあるキナバル国立公園内のキナバル山

は、東南アジアの最高峰である。マレー語で神の山を意味するというが、ジャ

ングルからこの山だけが抜きんでており、三五〇〇メートルより上は奇岩峰の

乱立する全山カコウガンの岩山である。日本では味わえない高度と長大なスラ

ブ地帯そして野生の熱帯植物、それらを短期間に体験出来るのがキナバル山の

良さであろう。自生しているウツボカズラには、温室で栽培されているのとは

全く違った生命力を感じ取れるし、種類の豊富なランの群落そして黄色や赤の

大小様々なシャクナゲ等まるで植物図鑑の中を歩いているみたいな体験をする

事が出来るのだ。だから、山頂を目指さなくても中腹までの植物観察だけでも

十分楽しめるのが、キナバル山の特徴である。更に頑張って登頂すれば、岩の

割れ目に根を張っている高山植物にも出会えるし、登山そのものの喜びも獲得

出来るから、少々出費は嵩んでもわざわざ出掛けて来る価値は十二分にある。

  PHQ(公園管理事務所)で許可を受けなければ登山できないし、数少ない

山小屋の定員分しか入山させないので、日本の 尾瀬が原 におけるような登

山者の列がないのが何より嬉しい。但し、必ずガイドを付けなければならない

規則になっている。しかし、ガイドは皆控え目で、私達の登山行動を後から見

守ってくれているだけなのが爽やかな印象を与えてくれる。休憩や出発は、す

べて登山者主導で行動できるからガイドの存在は気にならない。登山道は良く

整備されているし、枝道もないから迷う心配もなく、ガイドがいなくても登れ

るが、おそらく現地の人々の雇用対策としてのガイド利用規定なのだろう。

  なかなか日本語の上手なサバ州の旅行者のガイド、本を取り寄せて独学で日

本語を勉強したというその彼から、幾つかのマレー語を早速現地調達した。ス

ラマタギール(おはようございます)・スラマットプタン(こんにちは)・ト

レマカシー(ありがとう)・サマサマ(どういたしまして)・スラマットジャ

ラン(さようなら)・オラン(人)・ウータン(森)等である。

  現地のことばで簡単な挨拶くらいはしたいから、ガイドに教わって早速実行

するのを常としている。特に山中行動では、日本の山でもそうだが、すれ違う

人とは誰とでも挨拶をするのが通例だから、真っ先に現地の挨拶語を知る必要

がある訳だ。山小屋の食堂のウエィターに対しても、ちょっと挨拶をするだけ

で和やかな雰囲気になるのだから、朝食を運んで来てくれた時黙っている手は

ない。

  コタキナバルは東マレイシアにあるサバ州の州都である。国際空港もあって

、なかなか奇麗な人口十五万の都会だ。中国系の人が多く、活気に溢れている。

  キナバル山へは、コタキナバルからサンダカンへ通じている山岳道路を行く

のだが、都心を外れるとたちまち周囲の風景が変わってくる。水牛がいる農村

風景、暑さを避ける高床式家屋、椰子やバナナの木等いかにも南国さが漂って

いる。キナバル山は、街外れから直ぐ見え出した。仰向けになっている女性の

顔の形をしており、未亡人の意味もある。

  南西の方向に何度も雷光が煌めくのを、ラバンラタ山小屋のベランダで眺め

る事が出来た。かなり遠方の自然現象ゆえ音一つ聞こえず、一瞬輝く雲間を不

気味というより感動を持って、暫し対峙した。

  スコールの止みし岩壁冬の滝   淳夫

(平成四年十二月二十五日から三十日)

同行者  稲葉昌弘、東和之