キリマンジャロ登山記
                              稲葉 昌弘
   ・ 期  日  94年12月11日〜95年1月2日
   ・ 参加者  稲葉昌弘、ほか1名(妻)      
   ・ 目  的  キリマンジャロ登頂、新婚旅行、ほか

1 知人を頼ってナイロビへ

(12/11)

 12:00宇都宮駅前をマロニエ号(成田空港への直通バス)で出発。15時前に

成田空港着。シンガポ−ル航空機に乗り込む。同機には誰か要人が乗るようで、手荷

物のチェックを二度も受けた。酸素入りのスプレ−缶(キリマンジャロ登頂のために

用意していた)が引っ掛かり、仕方がないので帰りまでシンガポ−ル航空のカウンタ

−で預かってもらうことになった。19:00出発予定が20時近くなってやっと飛

び立った。 



(12/12)

 真夜中1:30頃シンガポ−ル空港着。3:05発のセイシェル行きに乗り換えな

ければならないからあわただしい。広い空港ビル内を迷いながら何とかセイシェル航

空の乗り場にたどりついたときには汗だくになった。(成田から着ていたフリースセ

ーターを脱ぐ余裕のもなかった。やや小型の飛行機に乗り込み3時間程、6:00頃

セイシェルに到着。飛行機は海面すれすれに飛んで、海岸近くの空港に着陸した。朝

方だがムッとする暑さである。待合室でコーヒーを飲みながら2時間程時間をつぶし、

また同じ飛行機で8:00に離陸。10:00頃ナイロビに到着した。機内から見た

ナイロビ郊外は広大な草原(サバンナ)で、ぽつりぽつりと木が生えている。そして

キリンの群れが走っているのが小さく見える。「アフリカに来たなあ」と実感した。

空港ではさすがに日本人は少なく、黒い(というより真っ黒い)顔ばかり。出迎えに

きてくれた今仁(いまに)さんは東京外語大を出たあとロンドン大学に留学し、現在

は国連のもとでケニア人に性教育や家族計画に関する教育をするためにナイロビに来

て約1年の才媛。手はずどおり、中級ホテルに彼女の車で連れていってもらった。チ

ェックインの後シャワ−と仮眠。夕方彼女の運転で市内をひと回りした。数日前まで

「宮沢りえ」と「りえママ」が泊まっていたホテルや、ルワンダ難民援助のPKOで

派遣された自衛隊員が泊まっているホテル(我々のホテルよりずっと高級!)を案内

してもらった。確かに迷彩服を着た自衛隊員の姿や「UN(国連の略)」と書いた白

いジ−プを見かけた。市内を戦車、装甲車、軍用トラックが沢山走っていたのには驚

いたが、これはケニアの独立記念行事の関係らしい。とにかく、「観光客が気軽に歩

き回れるようなところではない。」と感じたのが、私のナイロビの第一印象だった。

特に町の半分(ダウンタウン)は昼間でも近付かないほうがよいといわれ、実際、車

で通り過ぎるだけでも恐いくらいだ。市の中心部(オフィス街、商店街)も昼間はさ

ほどでもないが、夜の治安は悪いらしく、どの建物も窓には鉄格子がはめてある。私

はすっかり怖じけずいてしまったが、理香はそうでもないらしい。我々のホテルはそ

のダウンタウンからは2キロ位離れた郊外にあり、客のほとんどは白人か日本人とい

う所。周囲は高い塀に囲まれ、門には24時間ガ−ドマンがいるので、中にいる分に

は安心だった。1泊朝食つき2人部屋で約8000円。夕食はホテル内でとった。



(12/13)

 午前中ナイロビ市内へ。ホテルから徒歩で15分ほどで商店街に着き、土産物屋や

本屋をのぞく。土産物は置き物や首飾りが多く、実用的なものはあまり無い。この店

は高いと聞いていたので見るだけにした。本屋ではキリマンジャロの絵はがきと地図

を買う。キリマンジャロの地図は東京で買って用意してきたので、ルウェン ゾリ山、

ケニヤ山といった、次回のため?のものを買った。

 午後はホテルに戻り、テラスで遅い昼食をとりながら絵はがきを書く。やっと黒人

の顔を見ても平常心でいられるようになった。夕方、今仁さんに預けておく荷物を整

理していると彼女がやってきて、夕食に出掛けた。明日からのタンザニア旅行の壮行

ということでインド料理ご馳走になったが、辛くてかなり残してしまった。



2 陸路タンザニアに入国        

(12/14)

 7:40今仁さんの友人のキョウコさん(日本人)がお手伝いさん、あるいはドラ

イバ−と思われる黒人女性を伴ってやってきた。彼女は日本人のご主人と共にナイロ

ビに住み、旅行関係の会社をやっている。今仁さんは我々のバスチケットの予約を彼

女に依頼したが、間にもう一人入ったためにうまく伝わらず、予約できなかった。そ

こで、バス乗り場で直接チケットを買うために一緒に行ってくれることになった。理

香に言わせると、世界各都市には彼女のように土着した日本人が住んでいるそうで、

特に女が多いという。女の方が適応力があるのだそうだ。

 チケットを無事購入後(1人約2500円)、ワゴン車に乗せられてナイロビ大学

前に連れていかれ、27人乗りくらいのマイクロバスに乗り換えた。客は白人、イン

ド人、現地人とさまざま。8:30バス出発。市内を出ればあとはは延々と平原を走

った。

 お昼頃ナマンガという町で国境を越えタンザニアへ。出入国とも特にチェックはな

かった。タンザニア入国のために日本から持っていった「イエロ−カ−ド(黄熱病予

防接種の証明書)」も、不要らしい。

 更にブッシュ混じりの平原を走り続ける。日本を遠く離れ、「地の果て」に来たと

いう感じだ。私は「ここまで来ただけでも満足だよ。」と弱音を吐く。道に沿って所

々に集落もあり、真っ赤な布を体に巻き付けた「マサイ族」がいる。

 13:40アル−シャヘ着く。バスタ−ミナルのようなところに行くのかと思った

ら、そのバス会社の事務所前が終点だ。そして、マネ−ジャ−と称する男が日本語を

所々まじえた英語で「うち会社のツア−で登山しないか。」と誘う。ここアル−シャ、

あるいはこの先モシの町には数多くの旅行会社(といっても小さな事務所を持ち、数

人の従業員でやっているようなものばかり)がキリマンジャロ登山ツア−をやってい

る。

 長い交渉の末、登山4泊5日、サファリ3泊4日、その前後のアル−シャでの宿泊

3泊、合計10泊11日を1人750USドル、2人で1500ドルで決着(食費、

交通費、ガイド・ポ−タ−を含む)。貧乏旅行者にはこの金額は大きいが、今回の旅

行のメインであるのでやむを得ない。車に乗せてもって銀行に行き、トラベラ−ズチ

ェックを現金に換えたり、水、バナナ、サンダルを買ったりし、最後にゲストハウス

(安宿)に連れていかれた。大きい建物の中はいくつかの部屋に別れていて、部屋は

6畳ほどでコンクリ−トの床。壁はブロックと一部が板張で、ベッドがふたつあるだ

け。ベッドの上には天井から小型の蚊帳が吊ってあり、不用のときは上でまるめて縛

ってある。窓には鉄格子がはめ込まれ。網戸はあるがガラスはほとんどはずれている。

そしてこのゲストハウス全体の入り口は、客が出入りするとき以外は内側から鍵が掛

けられ、各部屋のドアにももちろん鍵がついている。隣の部屋には明日からの登山で

一緒になるオ−ストラリア女性ジョ−・アンがいて自己紹介しあった。夕方、部屋ご

とにろうそくが1本渡される。夜は電気がよく止まるとか。この晩は結局電気は一度

も点かず、ヘッドランプを使ってシャワ−を浴び(この晩はお湯も出ず、水のシャワ

ー)、石油ランプのもとで食事(肉とインゲン豆のトマトソ−ス煮込み、ご飯)を済

ませ、他にすることが無いのですぐに寝てしまった。寝具は薄汚い毛布だけだったの

でシュラフを使った。本当に長い一日で、心身ともに疲れた。夜中、スコ−ルがあっ

た。



3 キリマンジャロ登山

(12/15・第1日目)

 前夜早く寝たので6時頃に寝覚める。朝になってやっと電気が使えるようになった。

パッキングして朝食。車が迎えにくる。旅行会社の事務所に寄って不要な荷物を預け、

9:00出発。一路、キリマンジャロ国立公園管理事務所をめざし車を飛ばした。こ

の車(イギリス・ロ−バ−社の「ランドロ−バ−」8人乗り)が、とんでもなく古い。

例えば

 ・フロントガラスには全体に大きくひびが入っている。これは砂利道が多いのです

  れ違いの時に小石が飛ん来るためのようである。

 ・一部のドアが運転中に開いて、閉めようとしても閉まらない。逆にいったんロッ

  クするとそれが解除できない。

 ・キ−が運転中に鍵穴から抜け、床に落ちてしまう。エンジンを止めるときにはも

  う一度鍵を差し込まなければならない。

 ・どんなにスピ−ドを出してもスピ−ドメ−タ−の針は「0(ゼロ)」を指したま

  ま、当然走行距離メ−タ−も動かない。

という日本では考えられないようなものだった。この車には下山後も大いに泣かされ

ることになった。

 途中モシの町に寄り、登山用具のレンタル店でストックを借り(1本約200円)、

行動食のビスケットを4本買って、国立公園管理事務所へ。公園のゲ−トや事務所は

小銃をもったレンジャ−に警備されている。登山者名簿への記入、入山料の払込み等

手続きを済ませ13:00歩きだす。

 私と理香とジョ−・アンの3人パ−ティ−にはガイド1名、ポ−タ−(兼コック)

5名が付く。食料等重い荷物は彼らに預け、我々はデイパックに水、雨具、防寒具、

行動食程度の軽装だ。最初は2時間程林道を歩き、その後1時間山道を歩いて16時

ごろ標高2700mにある最初の山小屋マンダラ・ハットに到着。終始ジャングルの

中の歩きだった。歩行3時間で楽な初日だったが、出発時に昼食を受け取るのを忘れ

てしまったため、朝食以降食べたものはミニバナナ2〜3本とあとはポカリスエット

だけだった。そのためか、山小屋到着後、理香が頭痛を訴える。私の方は山に入り、

やっといつものも調子を取り戻して好調だ。今回の登山は登山口にたどりつくまでが

大変なのであって、ここまで来れば半ば目的を達したようなものだ。

 小屋はバンガロ−スタイルで、各小屋は三角柱を横倒しにしたような作りで高床式

になっている。真ん中を壁で仕切ってあって両側にドアを付け、独立した部屋を2つ

作ってある。各部屋は約3メートル四方で、作り付けのベッドが4つあり、厚さ10

センチほどのマットレスが敷いてある。特筆すべきは、太陽電池とバッテリ−で小型

蛍光灯が点くことだ。各部屋に3個程度あり、全部が点くとは限らないが大したもの

だと思う。我々3人で一部屋を占領、ガイド、ポ−タ−は専用の小屋に寝る。

 部屋に入り、 ベッドにシュラフを広げ理香を寝かせる。 水分不足のためかと思い

ポカリスエットを多めに飲ませたところ吐いてしまった。 理香を休ませたまま私と

ジョ−・アンは、食堂に行きコックのいれてくれた紅茶とビスケットでティ−タイム。

理香にも運んでやった。彼女も少し休んで気分が良くなったのか紅茶を飲みビスケッ

トを食べる。アリナミンAも飲ませた。しかし、飲みすぎてまた吐いてしまう。少し

様子を見るよりなさそうだ。

 17時半頃から雨が降りだす。食事は別棟の食堂で食とることになっているが、雨

のため部屋まで運んでもらう。肉や野菜の炒め物が多く脂がきつくて食べきれなかっ

た。食後ガイドが部屋にやってきてガイド・ポ−タ−の人数のこと、我々の荷物が通

常よりも重くて大変だなどと話していく。彼らは一人20キロまで持つことになって

おり、自分と理香に関しては最低限の装備で登山に臨んでいるため決して重いはずは

ないのだが。暗にチップの上乗せを要求したのだろうということで我々の意見は一致

した。夕食をとって理香も元気を取り戻し、ひと安心。夜中にもかなり雨が降った。

                           

(12/16・第2日目)    

 6時に目が醒める。晴れ間も見え、すがすがしい朝だ。ポーター達が朝食の用意を

始めるところだった。ガイドのところに行き、理香の体調が悪いこと、それは昨日昼

食をよこさなかったせいだということを言っておく。こちらも言いたいことはどんど

ん言っておくべきだと思ったからだ。それと荷物の件も言っておく。実は昨日事務所

を出発するときに山小屋での水事情を聞いたところ、「飲み水は売っているだけでと

ても値段が高い。」とのことだった。 そして、 「ポ−タ−が水を持ってくれるから

ここで水を買っていったほうが良い。」という。後から考えれば、これは我々にミネ

ラルウ−タ−を売り付けるための策略だったのだが、我々はまんま と引っ掛かって

1、5リットル入りを6本も買いこんでしまった。 そしてそのうち5本を昨日ポ−

タ−に持たせたため、荷物が重いと言ってきた訳だ。そこで、私は「ミネラルウ−

タ−を自分で持つ。」と申し出た。しかし、なかなか返そうとは しない。最後は、

「これは私の水だ。だから私が持つ。」と押し通してやっと取り戻した。

 朝食はカリカリに焼いた、しかし完全に冷めているト−ストにマ−ガリンとジャム、

ミルクティ−、卵焼き、生野菜(トマト、キュウリ)、果物(パイナップルなど)と

いったところで、お世辞にもうまいとは言えない。しかも、この程度の料理でなぜこ

んなに時間がかかるかと思われるほど遅い。この朝食に限らず、山小屋での食事は他

の白人パ−ティ−に比べ質の面で劣っていたし、食事が始まるのもいつもほとんどの

白人パ−ティ−が終わった後だった。これが人種のせいなのか、我々が3人という少

人数パ−ティ−のため後回しにされるのか、それとも単にポ−タ−の怠慢のせいなの

か理由は定かではないが、とにかく不愉快であることには変わりはない。

 8:30出発。 今日はガイド(「アリ」という名前)が我々3人と一緒に歩き、

ポ−タ−は荷物を持って先行した。30分程でジャングルを抜け灌木帯に出る。いく

種類かの花が咲いている。マツムシソウ、ハハコグサによく似た花もある。キリマン

ジャロツリ−というのもあった。晴れていたのは朝のうちだけですぐにガスのなかに

入ってしまった。長時間休んでいると寒くなるほどだ。今日は朝にランチを受け取っ

ていたので途中で食べる。(野菜のサンドイッチ、オレンジ、ミニバナナ、ゆで卵各

1個)ガイド・ポ−タ−はなぜか誰も昼食をとらず、一日二食をとおしていた。でき

るだけゆっくり歩いていたので、5時間で行くところを7時間かけて14:40第2

の宿泊地ホロンボ・ハットに到着。ここも前日泊の小屋と全く同じ作りだった。到着

後間もなく雨になる。                  



(12/17・第3日目)

 9:00ホロンボ・ハットを出発。 陽が射すと暑くなり、雨が降ると寒くなる。

ラストウォ−タ−(最後の水場)までは、川あり、湿地ありだが、その後は少々草の

生えた岩石砂漠のようなところを歩く。途中ジョ−・アンの気分が悪くなり嘔吐して

しまい、昼食も食べられなくなった。彼女は、登山当初から風邪気味であったようだ。

14時過ぎに最高所の山小屋キボ・ハットに到着。ここは大きな建物をいくつかの部

屋に区切ってあり、私達は2段ベッド8つの16人部屋をドイツ人4人と計7人で使

う。理香も小屋についてから疲れのため吐いてしまった。夕方から雪が降りだす。夕

食はトマト味のシチュ−とパンで、山に入って以来、一番美味い食事だった。少し頭

痛がしたので寝る前にバッファリンを飲んだ。頭痛はすぐにおさまったが、脈拍が毎

分80回の状態が一晩中続き、ほとんど眠れなかった。



(12/18・第4日目)

 0:30起床、紅茶とビスケットの簡単な朝食をとって1:00出発。理香もジョ

−・アンも元気を回復したようで、先頭にガイド、ジョ−・アン、理香、私そして最

後に若いアシスタント・ガイドがつき、5人で頂上をめざす。うっすらと雲がかかっ

ているものの満月で、昨夜うっすらと積った雪に反射し、ヘッドランプは不要なほど

明るかった。1時間程でジョ−・アンが体調不良のため脱落。アシスタント・ガイド

とともに小屋に引き返してゆく。残り3人となった。理香も私も好調で、先行パ−テ

ィ−をいくつか追越しながら登れた。しかし、上にいくにつれて傾斜が急になるうえ、

富士山の砂走りのようなところに雪が乗っているので足場が不安定なところもある。

だんだんと雲も厚くなってきて月も隠れてしまった。  5300メ−トルあたりから

理香、昌弘ともに急に疲れが出て、ペ−スが極端に落ちた。やっとのことで5:30

頃、頂上火口の一角ギルマンズ・ポイント(5685m)に到着。記念撮影。ここか

ら先は傾斜はなだらかになり1時間半ほどで真の頂上ウフル・ピ−ク(5896m)

に達するが、ガスのため見通しは良くない。うっすらと見えるこの先は雪と岩の稜線

で、雪が岩にこびり付いていたり、表面がクラストしていてアイゼンが必要な感じで

ある。とくに火口側がスッパリ切れ落ちている。先着パ−ティ−はみな引き返してい

るようだし、我々もデイパック、軽登山靴にストックという軽装なので無理をせず引

き返すことにした。私は正直のところ、二人そろってここまで来れるとは予想してい

なかったので十分満足であった。下り始めると、ようやく東方から陽が登ってきた。

朝日が雪に反射して美しかった。

 登りではジグザグに登ってきた砂走りを、下りでは一直線に駈け下る。私とガイド

は馴れているので早いが、理香が遅れがちである。ガイドが理香の腕をとって一緒に

駈け下ろうとするがうまくいかない。理香にとってはオ−バ−ペ−スだったようで、

貧血を起こしてしまい、座り込んで嘔吐してしまった。彼女によると「雪が緑色に見

えた。」そうだ。その後は、理香のペ−スに合わせ休み休み小屋まで下った。

 小屋でお茶を飲み、休憩をとる。朝には体調の悪かったジョ−・アンも、小屋で休

んで元気を回復していた。私自身も、前夜は全く眠れなかったほど脈拍が早かったの

に、いまは完全に落ち着いている。寝袋に入っているとうとうとしてしまいそうだっ

た。多少高度に順応したのかもしれない。

 9:00小屋を出発してひとつ下の小屋ホロンボ・ハットまで下る。最初は雪が降

っていたが、下るにつれ、みぞれ、あられに変わり、最後は氷雨となって、散々な目

にあう。理香は高度障害のせいか顔がむくんでしまい、たびたび休まねばならなかっ

たものの、下るにしたがって元気を回復してきた。13時半にホロンボ・ハットに到

着。ひとりで来たという法政大学4年生に会い、少し話しをした。タンザニアにきて

始めてあった日本人だった。遅い昼食の後、昼寝。久しぶりにぐっすり眠れた。夕方

になって雲が切れ、我々は入山4日目で初めてキリマンジャロの頂上を見た。



(12/19・第5日目)

 6:00起床。6:30朝食。7:40出発。前日夕方から引き続き快晴。今日は

登山口まで下る。下までおりてくるとさすがに暑い。昨日までの雪が嘘のような世界

だ。理香はやや体調が悪く遅れ気味だったが、11:40初日に泊まったマンダラ・

ハットを通過する。まもなく林道に出て、サルの群れやカメレオンなどを見ながら下

り、14時登山口に戻る。ガイド、ポ−タ−とともに喫茶店のようなところに入り、

ギルマンズ・ポイントまでの登頂証明書を受け取り、チップを渡し、住所を教えあう。

アシスタント・ガイドとひとりのポ−タ−は近くに住んでいるのでここで別れ、迎え

のミニバス(8人乗りのバン)に乗り込む。運転手は少し日本語が話せる。明日から

のサファリは、彼の運転で、この車で行くという。新しい車は快調に走ってキリマン

ジャロ国立公園に別れを告げた。

 ところが、モシの手前まで来たとき、急に左からオンボロの小型トラックが飛び出

してきた。こちらは80キロくらいのスピ−ドで走っていたから、止まり切れずに5

メ−トルくらいスリップして、車の左前をトラックの右ドアにぶつけてしまった。む

こうが悪いのは明らかだ。助手席に乗っていたガイドのアリは物凄いけんまくで、ト

ラックの運転手につかみかかるような勢いで外に飛び出していった。トラックの運転

手ともうひとりの同乗者はまだ少年で、特別荷物も積んでいなかったから、遊びで乗

り出したのだろうか。エンジンを止め、鍵を抜き取るとあっという間に逃げていって

しった。事故現場は街道沿いに家が立ち並んでいるところだったから、すぐに人が集

まってきて、あっという間に、30〜40人の人だかりになってしまった。誰が呼ん

できたのか、男女2名の警察官もやってきて、現場検証のようなことをやっている。

幸い、こちらの車はバンパ−が曲がり、ヘッドライトのガラスが割れた程度。走るの

には支障がない。そのうち少年の父親らしい人物が現われ、示談交渉をしているよう

だが、スワヒリ語で話しているので内容はわからない。我々乗客はただ待つのみであ

る。30分くらいたって、話がついたらしく、事故を起こした2台の車は前後して走

りだした。モシの街なかに入り、2、3件自動車部品の店により、最後に修理工場に

車を預け、我々はガイドとともに、近くの食堂に入り、ジュ−スを飲んで時間をつぶ

す。1時間程後にその車が未修理のまま我々を迎えにくる。モシにはこの旅行会社の

支店があり、その責任者でもあるオ−ナ−の息子(アラブ人)が破損の様子を見にき

た。彼とはあいさつ程度で別れ、やっと帰路につく。借りていたストックを返し、入

山前と同じアル−シャのゲストハウスに帰ったのは真っ暗になってからだった。普通

なら2時間で帰れるところを、倍以上の時間かかってしまった。昼食を軽くしか食べ

ていなかったので腹ぺこだったせいか、この時の夕食はタンザニアに来て以来一番美

味かったと覚えている。シャワ−もお湯が出たのは最初だけ、電気も23時になって

やっと点くなど、相変わらずだった。ジョ−・アンとお互いの住所や明日からの予定

などを教えあい、それぞれの部屋に別れた。



4 下山後

(12/20)

 我々はジョー・アンと別れ、3泊4日の日程でサファリに行き、サバンナの大自然

を満喫した。24日にナイロビに戻ってクリスマスを過ごし、28日にはインド洋に

浮かぶ孤島セイシェル諸島へ移動してそこで3泊。31日夜にシンガポールに向けて

飛び立ち、機内で新年を迎えた。元旦の夜にやっと新婚旅行らしく高層ホテルに泊ま

って、2日の夜に帰国した。

(※下山後も色々な出来事があって、書きたいことは山ほどあるのだか、紙面の関係

で割愛させていただく。)

 

5 ふりかえって

 自分にとっての旅行の第一目的(キリマンジャロ登頂)は果たせなかった。もし単

に登頂のみを目的とし、登山に専念するつもりなら、トレッキング会社のツア−に入

るなり、あるいは現地での手配を事前に国内で頼んでおいた方が良いと感じた。また、

お金のかけ方や旅行の仕方にもよるだろうが、アフリカが果たして新婚旅行の目的地

として適当だったのかどうかも考えさせられた。ただ、自分自身にとっては5600

メ−トルの高度を経験できたことは決して無駄ではなかったと思う。今後6000、

あるいは7000メ−トルを目指すうえでのひとつのステップと位置付けたい。そし

て、21日間をほとんど独力で旅行できたことは、「外国に行っても何とか困らずに

やっていける。」という自信をもつことはできた。反面、英会話能力の必要性を痛感

させられたが。


                          (1995年3月 記)