国体報告
有澤朱美
それは、1本の電話からだった。 「軽い気持ちで参加してみてください。いつ辞めても大丈夫ですから」という 悪徳商法まがいのキャッチセールスに足を運んでしまったのが事の発端であっ た。国民体育大会(以下国体と略す)に山岳競技なるものがあるなんて初耳で あった。 ここで説明しよう−−−−−−国体山岳競技とは? ・競技者:3人1組で競技。 ・競 技:縦走−−−重量を背負ってゴールを目指す。 登攀−−−オンサイト方式(最高到達点)。2人が競技。 踏査−−−地図上にポイントを記載しながらゴールを目指す。 ※年度により、若干ルール変更あり。 ということで、今となっては不思議ではあるが、平成8年広島国体と平成9年 大阪国体に参加してきたのでここに報告する。 平成8年 初夏−−−丹沢 関東ブロック大会(国体予選)へむけての合宿。 ザックを背負って走る、踏査コースを調べる、と一日中山に分け入り、汗し 、土にまみれる毎週末。 「何でこんな事をしているのだろう」と脳裏では同じ疑問が繰り返されていた。 あいにく、関東ブロック大会は補欠選手として応援側にいたが、選手−−− 応援団相互の懸命な姿に感化され、参加継続を決意した。 丹沢は、登山者でいつも賑わっていた。沢登りや他ルート縦走で再訪したい 所である。 盛夏−−−広島(佐伯町、大竹市、湯来町、吉和村) 空き家を借りての合宿。スケジュールを調整して、車で移動。ここでも縦走 、登攀、踏査の連続である。唯一の楽しみは夕食の買い出し。「あれ食べてみ たい。これもいい?」と汚れたTシャツに短スパッツでスーパーを右往左往。 もう一つの楽しみは、合宿地である湯来温泉で汗を流すこと。 運動し、食し、汗を流し、まさに人生の極みのような生活を送れたと今更な がら思う。 大会中は無我夢中。練習不足の後悔と不安感は常であったが、得意の『開き 直り』が幸いした。結果としては、縦走12位、登攀5位、踏査5位で総合7 位入賞であった。 良き思い出であった、チャンチャン。・・・で結ぶはずであったが・・・。 平成9年 春−−−またしても1本の電話から始まったのであった。 今回は奥多摩で予選。 東京にもこんなに緑が、のどかさが・・・と意表をつかれた。 川原でのテント泊りにも慣れたが、タイムや技術面の伸び悩みに「今回はこ こまで」という不吉な思いが日々濃くなっていった。予選1位通過という結果 からは想像もできないくらい、不安と惨澹たる気持ちで予選当日を迎えていた が、他の二人の若さのパワーが強力に後押ししてくれた。団体競技の良さここ にあり。前評判通り(?)成年・少年ともアベックで国体参加となった。 夏−−−大阪(河内長野市、交野市、千早赤坂村) みかんがたわわに実る牧歌的な雰囲気と、郊外の住宅地としての二面性を持 った開催地であった。金剛山、岩湧山ともによく整備され、ハイキングスポッ トとしては絶好の場所である。 ここでもよく走り、よく登り、たまに頭も使って考えた。 また、よく食べ、よく飲み、多いに語り合った。 競技中は「頑張ろう!」という意気込みとは別に、「やることはやった。楽 しもう」という落ち着いた雰囲気が漂い、それが結果として(縦走5位、登攀 6位、踏査2位で総合3位)表れたのであろうか。 後夜祭では、勝ち負け関係なく、充足した顔、顔が大広間で集い、お互いを 賞賛しあった。 心身共に辛い日々を過していた。その中でやり抜き通せたのは、選手だけで なく、監督、コーチ、それをとりまく人達、開催県地元の人など、みんなみん なの頑張りがあったから、応援してくれる人がいたからである。これが私の原 動力になって、支えてくれていた。皆さん本当にありがとうございました。 唯一冷たかったのは両親の一言 「幾つになったと思っているの。いい加減ふらふらしていないで、落ち着いた ら」 「・・・ ・・・」