入院までの
柏木 宏行
(ここに書くことは`92年8月23日の出来事です。どんなことが起こっ
たかは、高橋敬一著「山の尾根の風を分けるカンバの木」をご覧下さい。)
林道まで何とか引きずり上げられて、やっとこれで助かった、と思うことが
出来た。時計を見ると、あれからもうすでに6時間も経っている。タンカから
見上げる二人の顔は汗と泥が入り混じって、おまけに服や腕にまで泥がベトベ
トとこびり付いて、まるで激しい戦禍を戦い抜いてきた兵士のように勇ましく
見える。さしずめ僕は運悪く地雷を踏んずけちまった間抜けな奴と言う事にな
るのかな。
これを読んでいる皆さんに一つ注意しておかなければならないが自分の生活
しているこの日常がつまらないからとあまり突飛な事を考えないようにと言う
事である。
僕はあの頃、判で突いた様な毎日の生活がとても嫌で、(ちょっと一ヶ月位
入院生活と言うのもいいなぁ。病気で入院と言うのも何だから、ポキッと骨な
んか折れたりしてさ)なんて言うことを考えていたのである。そしたらその希
望は、見事に叶ってしまったと言うわけだ。ただ入院生活は一ヶ月どころでは
なく四ヶ月にもなってしまったのだが。
どうにかこうにかタンカごと高橋さんの1ボックスに放り込まれ、お神輿の
様にガタンガタンと揺られ、その度に痛さが脳天を駆けめぐるのをひたすら我
慢し、荒れた道をしばらく戻っていくと、救急車が僕達の到着を待っていた。
さっき通りすがりのおじさん達に救急車を頼んでおいたのだ。やっとのことで
乗せられた高橋さんの車でもあり、ようやく痛みも収まってきたのに、再び脳
天を掻き回される思いをしてズリズリと引きずり出され、今度はそっちの車に
乗り換えるんだって。タンカのままじゃだめですか?と聞いたら「だめです」だ
って。それならば、その簡易ベッドにそっと優しく体だけを移してくれればい
いのに、その救急隊員はご丁寧にも靴なんかを脱がそうとしているんだ。それ
も靴だけグイグイ引っ張るもんだから、その度に僕の足は伸びたり縮んだり、
この左足はちょっとでも動かされると吐き気を催すくらい痛くてしょうがない
のにさ。「なんでー!!なんでー!!」と自然と大声が出てしまう。本当は(何
でわざわざ靴なんか脱がすんだよぉ。このやろー)と言いたいのだが、こっち
は助けられる身であまり強いことも言えず、又、一息で言うには長すぎるので
「なんでー!!なんでー!!」となってしまうのである。
やっとその隊員は、僕がどれだけ痛いかが分かったらしく、ようやくその手
をとめた。(お陰で喉が痛くなっちまったよ)
1時間も救急車に揺られて、ようやく病院に着いた。まず救急治療室に運ば
れるのだが、そこまでキャスターの付いた簡易ベッドに乗せられて診察待ちの
患者さん達の中を行かなければならない。みんな何事かとジィーとこちらを見
つめていて、これは何とも恥ずかしいものである。まだ外傷があって血で滲ん
だ包帯なんかを頭などに巻いているならば、そういう視線にも耐えられそうで
あるが、この体、外見上はどこが悪いのか見つけることが出来ないのだ。それ
でも皆心配そうな顔で見続けているので、段々恥ずかしくなってくる。照れ隠
しに(俺は大丈夫ですよ)と言う気持ちで、ニコッと笑って(ピース)と指でVを
作って視線の渦の中を通りすぎていった。
治療室に運ばれると、僕の周りにはお医者さんと看護婦さんが5〜6人群が
って来て、あれよあれよと服が脱がされていった。まさかパンツまでは脱がす
まいと思っていたのだが、とうとうそれにも手が掛かってしまった。僕は慌て
て下げようとするパンツをずり上げたのだが「はいっ、だいじょうぶよぉ」と
若い看護婦さんがニコニコして言い(そっちが大丈夫でもこっちが大丈夫じゃ
ないわい)もうどうにでも好きなようにしてくれ、と彼女達の成すがままにな
ってしまった。その後、成人用のオムツを当てられた時には、何とも言いよう
のない複雑な気分になったのを覚えている。
レントゲンも撮り終わりあっちこっち触診されて、何やら世間話などしてい
る内に、さっきの写真ができてきた。それを見せてもらうと僕の左足の大腿骨
は真ん中からバッキリと真っ二つになっていた。お医者さんはそれを見て「ま
ぁ、きれいに折れてるね。こういうのは治りが早いんだよ」と何か嬉しそうに
言った。「あぁ、そうですか。それは良かった」足の骨が折れてしまって、本
当はあまり良くないのだがそう答えるしかなかった。
一通り診察も終わると、ベッドに寝かされたままエレベーターに乗せられ、
7階の病室に連れてこられた。高橋さんと稲葉さんは、相変わらず泥まみれの
汚い格好で、僕の周りをうろうろしている。「だいじょうぶか?」「何かほし
い物はないか?」とのぞき込むその顔には、パキパキになった土がこびりつい
ていた。
二人が帰ってしまうと、思わぬところで半分冗談のつもりだった願いが叶っ
てしまい、嬉しいというのか何というのか、とても変な気持ちになった。
窓から見える向かいの林では、セミ達が行く夏を惜しむかのように、懸命に
騒ぎ立てていたのを今でもはっきりと覚えている。
栗駒山山行記
久保
栗駒山は、岩手・秋田・宮城の三県にまたがる火山群で、日本200名山に
数えられる山である。この山は、岩手県では須川岳、秋田県では大日岳、宮城
県では駒形根よ呼ばれ、今日では、栗駒山が一般的なようである。標高は16
27mである。コースも、1時間強で登れるコースから深い原生林の中を5時
間かけて山頂に至るものまで、変化に富んだコースが数コースあるのが特徴で
ある。
私が、今までに栗駒山を訪れたのは2回である。
始めて訪れたのは、平成9年8月10日だったかと思います。特に何処へ行
くと決めた山行ではなく、東北方面へと印南、東と元会員の飛島、水上と私の
5人は、岳友会の渡辺さんから借りたワンボックスカーで東北道を北へと飛ば
しました。第一日目は、雨と風のせいもあり、みんなで登るか止めようかと、
優柔不断のなか、秋田駒ケ岳を歩きました。8月初旬というのに、風雨により
寒くてまったく視界不良の中で、きれいな筈の高山植物もほとんど見れない山
行でした。その夜は、秘湯の夏油温泉に一泊して、翌日、特に決めてはいなか
った栗駒山へと向かいました。
いわかがみ平の登山口に到着した時は、また、前日同様の悪天候(強風)の
せいもあり、どうしようかと言いつつも、せっかく来たのだからということで
中央コースから山頂を目指すことにしました。このコースは、今では、観光コ
ースになっているようであり、登山というよりはむしろハイキングという感じ
で、レストハウス前のコンクリート敷きの歩道が山頂手前まで続いており、東
栗駒山を巻くように潅木帯を行き、小さな草原を過ぎると、約1時間で山頂に
たつことができました。
帰路は、せっかくなので、少し登山らしく東栗駒コースをとることにしまし
た。強風の中、草原状のところを早足で下って行きました。初めは、稜線の南
面を歩いていた為、単なる強風程度でしたが、東栗駒山の手前の稜線上まで来
ると、まともに北風があたり、単なる強風をはるかにしのぐ台風にも似たもの
になり、立っては歩くことができなくなり、岩や低木に捕まりながら這いつく
ばった状態での下山となりました。そして、下山中、東さんの「メガネ飛ばし
事件」が発生したのでした。あまりの強風で、私もメガネを片手で押えつつの
下山でしたが、東さんのメガネが強風で、空高く舞い上がって飛んで行ってし
まったのでした。私は、どうにかその二の舞いは免れました。以前にも、強風
の中の山行は、那須岳、安達太良山でも経験しましたが、今回のような風は初
めてでした。そんな訳で、這いつくばった状態での下山がしばらく続いた後、
ようやく沢筋に出て強風を避ける事ができるようになりました。その後は、沢
沿いに少し進んで、それから、悪路の樹林帯の中を下山して、再びいわかがみ
平の登山口に到着しました。今、思い返しても本当にすごい強風だったと思い
ます。
下山後は、麓の駒の湯で汗を流しました。この年齢になると、山は、やはり
『すばらしい山と温泉と地元の名物を食べる事』がセットになっているのがベ
ストであると思います。そんな訳で、入浴後、私たちは、東さんの発案により
『牛たん』を食べる為に仙台へと繰り出しました。訪れた店は『るるぶ』にも
掲載されている店で、外にお客が列をなして並んでいました。牛たんとそのス
ープ、そして、お新香というシンプルな定食でしたが、これがまた、ご飯が進
んでしまう美味しさで、一同納得でした。今回の東北方面山行は、山行として
のレベルは決して高くはありませんでしたが、『山と温泉と美味いもの』の3
点セットの満足の山行でした。
栗駒山を2度目に訪れたのは、平成10年9月20日の登山教室の時でした。
今回は、北側の須川温泉から昭和湖を経てのコースでした。
南側の中央コースに比べると登山らしい落ち着いた穏やかなコースでした。
登山道は、低木の中の遊歩道からはじまり、少し歩くと、名残ケ原にでました。
このあたりは、登山口あたりよりは紅葉が進んでいました。木道を過ぎると登
山道らしくなり、まもなく、自然観察路を経て、小沢を渡り、少し登ると青く
輝く昭和湖にでました。昭和湖からは、やや急な支尾根上の道となり、やがて
県境主稜線に飛び出し、須川分岐に着きました。ここからは、山頂が望め、尾
根道を20分ほど登ると山頂に到着しました。少し早い紅葉ではありましたが
山頂には、学生を含むたくさんの登山客でにぎわっていました。昼食後、帰路
は1回目と同じ東栗駒コースを進みました。コースは同じでしたが、今回は強
風はなく、草原状の道を気持ちよくたおやかに下りました。登山教室の参加者
も下りコースがとても気持ち良かったと言っていました。天候による山の違い
をあらためて感じた山行でした。
後になって思ったのでしたが、この山行が、私が富川さんに会った最後とな
ってしまいました。この紙面を借りて、あらためて、心優しく大きな人間であ
った富川さんのご冥福をお祈りいたします。
最後に、宮城県北部の志波姫町で朝な夕なに栗駒山を仰ぎ見て育った、シン
ガーソングライターのみなみらんぼうは、『ちょっと山へ行ってきます』とい
う著書の中でこう言っています。『古里の栗駒山は、やっぱり僕にとってはも
う一つの母親のような存在である。帰省すると今も「ただいま」と頭を下げる
山である。』と・・・・・・。