大平山チャレンジ登山競争

                               高橋 敬一

 グランドの隅にプラスチックの赤いケースが一つ転がっている。

「あのビールビンのケースの上に乗って開会の挨拶をすんだよね、きっと」

  と私が言うと、

「あれ醤油ビンのケースっすよ。ビールビンのじゃないっすよ」

  と吉葉さんが言う。

  そのうち国体監督の佐久間さんが、

「みなさあーん!集まってくださあーい!」

  とハンドマイクでがなりたて、あちこちに散らばっていた選手も、ぞろぞろ

と赤いケースの前に集まってきた。

「では」

  そう言って、小柄な坂口栃木県山岳連盟会長が、醤油ビンのケースの上に乗

り、登山競争大会の挨拶を始めた。

  私たちはさきほど受け付けでもらった参加賞が気になって、よく聞いていな

い。

「参加賞なんだろうね、これ」

「あ、マグカップだ。ひゃあ、おれ、いっぱい持っているんですよね」

「おれは一個も持っていないからよかったな」

  十一月も下旬となり、きょうからは冬型の気圧配置になるということだった

が、栃木県南部の大平山の麓はぽかぽかと暖かいくらいだった。

  坂口会長の挨拶はなおも続いている。その後ろのバックネットに結び付けて

ある大会の横断幕はなかなか立派だ。

「高かったろうねえ、あれ」

「でも、第何回って文字が入っていないからずっと使えますよね」

  十時十五分、ペアおよび女子クラスがスタートラインに並んだ。

  ペアは男子同士でもよく、中には若い男子高校生と組んで上位入賞を狙う者

もいる。

「おーい、ずるいぞおー。がんばれよおー」

  応援の声も一段と高い。

  走る距離はどのクラスも同じで、十キロちょっと。コースは前半が平地で後

半が山道となる。山道とは言っても神社に続く立派な石段や広いハイキング道

だ。

  負荷はクラスによって異なるが、ペアの場合は二人合わせて二十キロ。高校

生と組んでいるペアでは、ほとんどを高校生が背負っている。

「それでも勝てなかったら、きょうはおごってもらっぞおお!」

  パーンというピストルの音がしてまずは男子のペアが飛び出し、その後を若

い女子グループが追う。

  最後尾には四十代から五十代かと思われる女性の一群がいたが、走る気は全

然ないらしく、ゆうゆうと歩いている。

「あの人たち道を譲ってくれるかなあ」

  男子単独の選手は早くも心配を始めた。

「道、狭いからねえ・・・・・」

  そんな心配の中、いよいよ男子単独クラスのスタート時刻になった。

「おう、写真撮ってやっから、おまえらスタートの時くらい先頭にいろや」

  我が矢板岳友会会長の小林さんの言葉で、私たち六人は先頭の端のほうにな

らんだ。

  本当は八人のはずだったのだけれど、二人が敵前逃亡してしまったのだ。

  昨夜遅く、そのうちの一人、同じ寮に住んでいる梅田さんから電話があった。

どうもずいぶんと遠くからの電話のようだった。

「あ、梅ちゃん?もうみんな集まっているんだよ。いまどこ?」

「あのう、すいません。ちょっと、そのう、出られなくなっちゃいました」

「え?ほんと?梅ちゃん、いま、どこにいるの?」

「ほんとにすいません・・・・・」

「梅ちゃん?梅ちゃん!」

  電話は切れてしまった。



  パーンという合図に、私たちはいっせいに走り始めた。

  私は早くも、六人のなかでビリになった。

  地下足袋を履いているのでクッションが効かず、硬い舗装道路は苦手だ。

  それでもしばらく走っていると吉葉さんに追いついた。彼は昨夜寝違えたと

のことで首がまだ曲がっている。

「おい、だいじょうぶかよ。無理すんなよ」

  続いて柏木さんに追いついた。

「おう」

「あ、高橋さん」

「無理すんなよ」

「はーい」

  しばらくで今度は小田さんに追いついた。

「へへへ、お先に」

  やがて道はブドウ団地の脇からようやく山に入っていく。やれやれ。

「おう、何キロしょってんだい?」

  山の中腹にある神社へ登る人が、おもしろそうに聞いてくる。

「・・・・・じゅっきろお!」

  つばをのみ込みながら叫ぶ。

  少しでも平らになると走り出す。下りになると勢いよくジャンプしたいとこ

ろだが、最近は腰や膝がてんでだめになってきていてセーブしながら下りなく

てはならず、実に情けなかった。

  チェックポイントでゼッケンにマジックで通過の印をつけてもらうときだけ

ちょっと立ち止まり、またダダーッと走り出す。

  古いザックなのでいつ背負い紐が切れるか分からず、それが気になってしか

たがない。

  そのうち急な下り坂になって、男子ペアの一組に追いついた。

「しめしめ」

  道脇の雑木林に飛び込み、木をつかみながらめちゃめちゃに突進してこれを

追い抜いた。

  その先にもう一組みつけた。必死に追いすがっているうちに山を抜け、アス

ファルトの緩い下り坂になり、このペアにはとうとう逃げられてしまった。

  ゴールはまだまだ先だろう。そんなことを考えながら角を曲がると、大勢の

人がかたまって立っている。

  ゴールだ。こんなところにゴールがある。

  テープを持っているのは知り合いの人で、がんばれ!がんばれ!と応援して

いる。ふと後ろを振り向くと、必死の形相のランナーが一人、今にも私を追い

越さんばかりだ。

  わずか十メートルあまりを私は空ばかり見つめて駆け抜けた。

「ごくろうさまあ!」

  稲葉さんや高井さんには追いつけなかったけれど、私も9位に入った。

  グランドに戻ると、あちこちの山岳会から動員された人たちが豚汁をつくっ

たり、ご飯を炊いている。

  豚汁が乗っている奇妙な形の炊事キットには、赤十字緊急災害炊飯器などと

書いてある。

「こ、こんなの、いったいどこから持ってきたのお?」

  ジュースもビールもあまるほど揃っていた。

  土埃の舞い上がるグランドに選手は次々と帰ってくる。

  全員が戻ってくると、グランドの隅の醤油ビンのケースの上で坂口会長が挨

拶して、楽しかった一日も終わった。

「じゃ、また」

「うん、またね」

  みんな互いに手を振りながら会場を去っていく。

  豚汁やサロメチールの混ざった匂いでむんむんしていた会場も静まり返り、

ようやく強くなってきた北風の中で、バックネットの横断幕だけがばたばたと

はためいていた。