三人の登山者
水上 雅之
『O君に会いたい。』 O君に会ったのは、ある夏の夕暮れ、雨の降り出した湯ノ平温泉小屋だった。 私たちは大石尾根を登り、飯豊の御西岳までの縦走の帰りに、この小屋まで 下りてきていた。 縦走中、天気はよく、真っ赤に腫れ上がるまでに日焼けした腕を湯につけな いように汗を流し、さっぱりした体を小屋で休めていたとき、その中年女性を 中心としたパーティーはやってきた。 「あら、私たちの場所、もうないのお?」 と小屋にいる人たちに聞こえるような声でその中年女性は言った。私たちを含 めた先客は白々とした目で彼女たちを見ていたが、そのパーティーは土間近く の荷物の隙間にザックを置くとおもむろに場所の確保を始めた。 パーティーはその女性を中心としていて同い年ぐらいの中年男女と若い青年 がいっしょだった。社会人山岳会の集まりなのだろうか。私は、少し興味をい だきながら彼らを見ていた。すると、先ほどの中年女性が青年に向かって甘え るような声で言った。 「ねえ、Oくう〜ん、薬塗ってくれるう。」 中年女性は服から両肩を出すと、青年に向かって突き出した。青年はいやな顔 もせずに筋肉痛の薬なのか、軟膏を女性の肩に塗り始めた。その時から私たち の興味の対象は中年女性から「O君」と呼ばれた青年に移っていった。 二人はどんな関係なのだろう?山岳会の先輩・後輩なのだろうか?彼は好き でそんなことをやっているのか・・・。私たちの興味は、次々と新しい疑問を 生み出して行った。 その後も、中年女性は「O君」にあれこれ指図をし、いろいろな私事をさせ ていた。そして、私たちはその中年女性の指図に反論もせず、ひたすら素直に 従っている青年の献身的な態度を敬服して見ていた。ただ、一つの疑問をいだ きながら。 「O君、君はそれほどまでにして、あの中年女性といっしょに山に登りたい のか?」。 『落とし主は誰だ』 夏山、天気も上々。真っ青に晴れ渡った朝日連峰以東岳からオツボ峰への縦 走路はそこかしこにチングルマが咲き乱れ、まさに「天上の花園」だった。そ の中を私たち一行4人は、いつも通り先頭を私が歩き、後を川島、印南、飛島 と続いて、ちょっと狭いが景色のよい尾根道を歩いていた。天気がよいと会話 もはずむ。印南さんと川島さんがいろいろな話をし、飛島さんもそれを楽しそ うに聞いていた。 しばらく歩きつづけると前のほうにひらひらとたなびく「白い物」が見えた。 「たぶん、あれだろう。」 私はいやな予感がした。しかし、それを口に出してこのよい雰囲気を壊すわけ にはいかない。皆が気がつかなければ、それでよいのだ。ここは、何としても 皆の視線を「白い物」と反対方向に導かなければ。私は、「先頭を歩く者」の 責任感から意図的に話題を大鳥池の景色や可憐に咲いた色とりどりの花々に向 けた。 皆の視線は大鳥池のほうに向き、美しい景色に見とれている。作戦は成功だ った。しかし、私の視線は皆の視線と反対に、あの「白い物」に吸い付けられ て行く。「見たくない」と思いつつも自分の意志に逆らって視線は自然と「白 い物」に向いてしまう。 「ああ、見てはいけない!」 そう思いつつも、パンドラがいけないと知りながら箱を開けてしまったように、 はたまた、イブが禁断の果実を食べてしまったように、私も禁断の「白い物と その横に鎮座している立派なあれ」を見てしまった。「ああ・・・」 それは、あまりにも立派な一本〇△だった。太く、そしてまっすぐな〇△は 健康を地でいくような〇△だった。物から察するに、落とし主は若くて健康な 男性で、笑うと白い歯がきらりと光るような奴なのだろう。きっと、彼は我慢 できずにやってしまったのだろうが、ここは身を隠すところもない360度景 色のよい場所。しかも、太陽はさんさんと当たる天上の花園。「白い物」は朝 露に濡れた様子もない。ということは、これはできたて? 皆は気づかずにその場所を通り過ぎ、相変わらず素晴らしい景色を話題に歩 いている。しかし、私は「この落とし主がどのような顔をしてここでやったの か、また人がきたらどうするつもりだったのか」という疑問が頭の中をグルグ ルと駆け巡り、それ以降、彼らと同じように回りの景色を楽しむことなどでき なくなってしまった。 『ウガンダ』 朝一番の栂池スキー場のゴンドラの中で、私は異様な臭いに悩まされていた。 そう、それはゴンドラの同乗者、タレントのウガンダに似た若い男の汗の臭い だった。彼はすがすがしい朝の大気の中を進むゴンドラの中で、なぜか信じら れないくらいの汗をかいていた。それも、山から下りてきたのならいざ知らず、 登る前に、しかもゴンドラに乗っているだけなのに。私は彼に対して不快感と ともに、奇妙な興味を感じ始めていた。 今回の山行は「山で休暇を十分に取ること」を合い言葉に、栂池から白馬岳 を経由して猿倉に下りる3泊4日の大名登山だ。私たちはゴンドラ終点の登山 受付けで 「これが本当の登山だねえ。」 と指導員に軽い嫌味を言われながらも「非日常の休暇」を前に、気持ちは山上 に向かっていた。 あんなに晴れていた空も、山上はガスの中。白馬大池も流れるガスに巻かれ て、全容がよく見えない。小屋の外で景色のよい場所を探し昼食を取ったが、 ただ寒いばかりだった。夕方になって太陽が顔を出し始めたので小屋の外を散 歩した。すると、そこに彼、そうウガンダがいた。 次の日は白馬岳まで。這って行っても、あっという間に着いてしまう。私た ちは昼前には白馬山荘に着きゆっくり昼食を取っていた。すると、また彼、そ うウガンダに会った。彼は私たちが休んでいる山荘前のベンチを、昨日と同じ ように大汗をかきながら通り過ぎて行った。四国の高校名の入った彼のザック が下手なパッキングにいびつに歪みながら右に左に揺れていた」。彼の歩きっ ぷりを見ると、今夜の幕営地はどうやら村営小屋のテント場らしい。 今回の山行は、一度はやりたかった大名登山。御大尽様は、余りある日程で 山の休日を楽しむのである。そして、こんな優雅な山行を行なう奴などこのせ わしい日本にいるはずがない、と私は思っていた。しかし、3日目の宿泊場所 の白馬鑓温泉で、また彼、ウガンダと一緒になった。彼は、少し傾斜したテン ト場に昨日までと同じように一人用テントを張り、露天風呂に向かって行った。 山の最終日、満員の小屋で眠れなかった夜が明けて、私たちはさっさと下山 を始めた。私はテント場で彼を探したが、もう既に出発した後だった。もう彼 と会うことはないのだろう。私たちの夏休みもすでに最終章に入っていた。雪 渓や御花畑を過ぎて、猿倉に着くとそこはもうただの日常だった。そこには、 素晴らしい山上の景色も咲き乱れる高山植物も、そして今回の象徴、あのウガ ンダの姿もなかった。 私たちの山の汗を村営温泉でながし、昼食に出かけた。すると夏休みで多少 混雑した白馬駅前の交差点を曲がった「白馬ラーメン」の前に、彼がいた。彼 はバイクの荷台に見覚えのあるザックをくくり付け、今まさに店の中に入ろう とする所だった。私は彼との偶然の「再会」に驚いた。」しかし、今日、再び 彼の姿を見る事ができて『まだまだ、非日常の夏休みは終わっていないな。』 と、私は少しうれしくなってしまった。