至 仏 山
                          池上 卓男

 その日は風邪気味で頭が重かった。薬のせいで、もうすぐとは思いながらも

ウトウトし始めていた。

 「書類を受けとって総務に届けたら今日の仕事はおしまいにして・・・」


 気がつくと電車は渋谷に着いており、あわてて下車する羽目になった。相手

は既に改札口で待っていた。封筒に入った書類を確かめると、私は礼を言って

丁度来ていた電車にかけ込んだ。


 すぐに新宿に戻って小田急線に乗り換えるはずであったのだが、つい眠り込

んでしまったようである。

「しながわーしながわー。東海道線、京浜東北線快速をご利用の方はお乗り換

えです。」

駅のアナウンスにあわててホームに降りた。時計を見ると1時15分を指して

いた。体調は更に悪くなり目眩がしてベンチに腰を下ろしたとたん、私は30

年前の尾瀬至仏山頂に引き戻されていた。

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その時、私はこれからどうしていいかわからず、寒さと不安の中でじっと霧の

晴れるのを何時間も待っていたのだった。

何故自分は再び至仏山頂にいるのだろう。


 大学1年の9月も下旬。前期試験も終了し三泊の予定で尾瀬に入ることにし

た。檜枝岐から沼山峠を越え、一泊目は長蔵小屋、皿伏山・富士見峠を経て二

泊目は富士見小屋、三泊めはアヤメ平を経て鳩待峠の小屋と好天に恵まれ、最

終日のその日、小至仏を通り10:15には至仏山頂に立っていた。

 紅葉シーズン直前の平日とということもあり、山頂には4人組のパーティし

かおらず、静かな山の景色を堪能していた。少し昼食には早かったが、一人で

来た私は小屋で作って貰ったおにぎりを食べ終えると、霧の出てきた天候を少

し気にしながら荷物をまとめ、来た道を戻るため先ほど通過した小至仏に向か

った。


 「こんにちは。」 山で人に会うと皆、気さくに声を掛け合う。こんな時は

相手も「こんにちは。」と応じてくれるのが常である。ところがその男はこち

らに全く気がつかない様子で少し脇を通り過ぎて行ってしまった。今から行く

のなら、彼は至仏から山の鼻に降りるのだろうと、勝手に考えていた。



 どれほど歩いたろうか。もういくら何でも小至仏につくはずだが。もはや数

メートル先もよく見えないほど濃くなってきた霧の中を、踏跡を外さないよう

に気を使いながら歩いていた。この尾根の西側はご存じのようにかなり切り立

っている。武尊方面への山道はあるがあまり人は入っていないようである。

霧の中万が一道に迷っても、尾瀬ヶ原に降りるぶんには何とかなるだろうが、

西側に入り込むのだけはなんとしても避けたかった。

「まあ、来た道を戻っているのだから」と心細くなってきた自分に言い聞かせ

ながら歩き続けた。ここで時計を見ていれば、自分がどんな状況に入りつつあ

るかを理解できたはずであったのだが・・・。


 濃い霧の中、人影が見えた。それが件の男である。

挨拶もない山男を怪訝に思いながらも、無視をする事にしてさらに歩いた。役

に立たない地図はズボンのお尻にしまい、コンパスだけは首から下げていた。

磁針はずっと南を指している。まもなく霧の中に道標のようなものがぼうーっ

と現れてきた。やっと小至仏に着いたと思った矢先、安心は恐怖に変わってい

た。その板には小至仏ではなく「至仏山」の文字がはっきりと読みとれたので

ある。

 そう言えばあの男は?


一瞬どうしてよいか判断が付かなかった。既に誰もいなくなった山頂で、私は

先ほど昼食を食べた場所に座り込んいた。

 自分は霧の中、何処をどう歩いて再びここに戻って来たのだろうか?

リングバンデリングであった。話には聞いていたがまさか自分が出くわすとは

予想だにしていなかった。新田次郎の小説の八甲田山の結末が頭をよぎった。


 「ここは間違いなく至仏山である。ならば山の鼻小屋が一番近い。霧さえ晴

れれば山を下るだけだ。何とかなる。」と、自分自身に言い聞かせるのがやっ

とであった。


 霧がすっかり晴れたのは、既に午後4時を過ぎていた。地図で何度も何度も

確認をしながら、やっとの思いで小屋にたどり着いた。

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「とーきょうー とーきょー」

「乗り換えるときに電車を間違えた?いや、絶対にそんなことはない。それと

も居眠りをしていて品川で降りていなかったのか?」

考えがまとまらないまま、今度こそ確実に降りた東京駅のベンチで何とか整理

しようとしたが無駄であった。


「とにかく封筒を届けなければ? 封筒は? 確かに受け取ったはずだが。」

「封筒を渡してくれた男は誰だっけ?」

挨拶もしないあの男は誰だったのか。至仏山の北側に更に入っていったことに

なるあの男は? 至仏山から、あの時間北に行っても近くに小屋はないし、第

一ずいぶんと軽装だった。


 自分は霧の中、どの道を歩いてここに戻って来たのだろう? しかも北側か

ら山頂にでるには・・・

 今確認しておかなければいけないのは、小屋の方向と距離と・・・明日中に

やらねばならないのは、朝の会議の準備と・・・


私は今日はどこに行く予定だったのか?