遠い頂
                                       小口貴文

山頂にて   拡大 → 写真L   写真M 遠景    拡大 → 写真L   写真M
  栃木県高体連登山部は、顧問の力量向上と生徒への啓蒙のため五年に一度

海外に登山隊を派遣している。毎回実力あるメンバーで隊が編成され、十年

前にはインドヒマラヤのCB31峰登頂、五年前には崑崙山脈の未踏峰、ム

ーシュムズターク峰初登頂等の輝かしい成果を上げて来た。そして今回は高

体連登山部の三十五周年を記念して、チベットのニンチンカンサ峰に挑むこ

とになり私も未熟ながら登山隊の一員として参加させてもらうことになった。

我々はこの遠征に備え、昨年の冬から北アルプスの穂高岳や富士山、筑波大

学の低圧実験室等で訓練を繰り返してきた。私個人としても毎日八kmから

十kmのランニングを日課にして遠征に備えた。

  ニンチンカンサ峰はチベットのほぼ中央部に位置し、この地域の四大雪山

の一つに数えられている。ヒマラヤと同様、インドプレートがユーラシアプ

レートに滑り込む力によって隆起した、七千二百mの標高を持つ高峰である。

過去に大分山岳連盟の挑戦を退けたものの、千九百八十六年に北京大学隊に

より南面から初登頂された。そして我々は今回、未踏の西面ルートからの登

頂を試みたのである。又、筑波大学のスタッフや、県博物館の学芸員も参加

し高所運動生理学や地質調査等も行なうことにした。

  登頂を成功させるためには二つの大きな課題を克服しなければならない。

一つ目は天候、特にこの時期のヒマラヤはモンスーンの影響を強く受けるた

めかなりの悪天候が予想される。少ない好天のチャンスをいかに捉えるか。

そして二つ目は高所順応の問題である。ちなみに標高五千mで酸素は平地の

約半分、七千mでは約三分の一となる。うまく順応しないと頭痛や吐き気に

さいなまれ、時には死亡するケースもある。今まで何人ものクライマーが高

度障害で尊い命を落としてきた。天候と高所順応、この二つの課題をクリア

ーしてこそ、ニンチンカンサの頂を踏むことができるのである。

  七月二十二日、まだ梅雨が明けきらない日本を、日光高教諭渡辺氏を始め

多くの友人や家族に見送られて本隊が出発した。香港を経由してネパールの

首都カトマンズに着いたのは夜の八時五分である。(日本との時差は約2時

間)空港には一週間前に出発した先発隊の隊員と、今回同行する3名のシェ

ルパが出迎えに来てくれた。車に乗り込みホテルへ向う。ここ数年カトマン

ズは大気汚染がかなり進行している様だ。ホテルでは簡単にミーティングを

行なった後、明日から始まるキャラバンに備えて早めにベッドに入った。

  七月二十三日、この日からニンチンカンサに向けてキャラバンを開始した。

ジープに乗り込んでチベット高原を横断する約一千kmの長旅である。カト

マンズから、ネパールとチベットの国境の街ザンムーまでは緑が濃く、山の

斜面には段々畑が重なり潤いのある風景が展開している。ザンマーからニュ

ラムにかけては、北海道の層雲峡の数十倍はあると思われる巨大な峡谷の道

を進んだ。ガードレール等はなく、日本であれば間違いなく通行止めになる

様な道で、少しでもハンドルを切り損ねたら、数百mの谷底に真っ逆さまで

ある。(実際、途中でトラックが一台転落していた。)ニュラムを越えると

景色は一変し、チベット高原特有の黄土色の荒涼とした風景が広がって来る。

チベット高原は、ヒマラヤ山脈の隆起と共に押し上げられた。平均標高約四

千六百mの巨大な高原である。所々で見られた摺曲地形に、地球という一個

の大いなる生命体が持つ計り知れないエネルギーの一端を垣間みた様な気が

した。全体的に乾燥しており、殆んど木は見られないが、夏のモンスーン期

には降水があり地衣類や苔類が植生の中心である。人々は日干しレンガの家

に住み、この時期はヤクや羊の放牧に五千m近くまで牧童達がやって来る。

又所々でわずかな降水を利用して、菜の花や麦が栽培されており、荒涼とし

た風景の中にわずかではあるが、色彩を添えている。チベットには風呂に入

る習慣がない。そのため人々は皆垢だらけであるが、乾燥しているためか体

臭はなくさほど不潔さは感じなかった。休憩のために車をとめると、子供達

がやって来て屈託の無い笑顔の思わず旅の疲れが癒される。

  キャラバンを開始して三日目、標高五千mのラルングラという峠にさしか

かっつた時のことである。視界が開け、突然ヒマラヤ山脈のパノラマが広が

った。荒涼とした高原の彼方に真っ白な万年雪を纏った七千m級の山々、八

千mをわずかに越えるシシャパンマやチョーオユー、更には世界最高峰のチ

ョモランマ等が延々と立ち並んでいた。神々の座と呼ぶにふさわしい荘厳な

風景に、いよいよヒマラヤに来たのだという事を実感させられたと共に、私

は言葉にできない興奮に全身が震えた。

  七月二十八日、様々な出会いと感動を生んだ六日間に及ぶキャラバンは終

わり、我々はようやく標高四千七百mのベースキャンプ予定地に到着した。

隊員総出でキャンプ建設に取り掛かり、夕方には立派なテント村が出来上が

った。ここがいよいよ始まる登山活動の拠点となるのである。

  早速翌二十九日より登山が開始された。とは言ってもこの日行動するのは、

ルート偵察隊の三名で他の隊員は2トン近くにもなる隊荷の整理である。夕

方偵察隊が戻り、その報告に基づいて夕食後ミーティングが開かれた。そこ

で決まった事は、第一キャンプはもろい岩稜を標高差千m登った雪線の辺り

に建設する事、ベースキャンプから第一キャンプまではかなり遠いので、ベ

ースキャンプから三つ程尾根を越えた辺りに荷上げのための前進基地である

アドバンスベースキャンプを建設する必要があること、第一キャンプから急

な雪壁を登りその先の小ピーク上に第二キャンプを建設すること、頂上はか

なり奥にあるらしく、第一キャンプからは見えないので、第三キャンプを建

設するかどうかは頂上が見える様になってから判断する事などである。かな

り頂上までは遠い様である。

  ある日荷上げを終え、アドバンスベースキャンプ(以後ABCと省略)で

休んでいる時のこと、第一キャンプ(以後C1と省略)から上部にルート工

作に向った隊員から無線が入った。

  「第二キャンプ(以後C2と省略)予定地に着いて、ようやく頂上が見え

ました。いやー遠いね。Very  Far  Very  Far」

  どうやら第三キャンプ(以後C3と省略)を設置する事になりそうだ。

  ABCからはおおいかぶさるような、ハンギング氷河を真っ正面から見る

ことができる。無数のクレバスが走り、時折ゴウォーッという轟音と共に雪

崩が起きている。我々のルートは右手の岩稜から氷河に入り、三角岩と我々

が名付けた岩壁を沿う様に雪壁を登り、そこから上部の稜線に抜ける、未だ

手付かずのルートである。今回我々が採用した方法は「極地法」という最も

オーソドックスなヒマラヤ登山の方法であり、確実にルート工作や荷上げを

行ないながら、幾つかの前進キャンプを展開し、最後に最も調子のよい数名

の隊員で頂上アタックをかけるというやり方である。しかしあくまで我々が

目指すのは十五人の隊員の全員登頂である。

  この登山における私の役割は主に荷上げである。ルートが切り拓かれると、

その後を辿って各キャンプに荷物を上げる。全員登頂を成功させるためには、

より多くの荷を上部に上げなければならない。高所順応は割合うまく行って

いたが、一度だけC1への荷上げの途中で体が動かなくなり仲間に助けられ

ながら下りた事があった。翌日は強制的に休養を取らされ、そのため他の隊

員に遅れをとってしまった。私はその遅れを取り戻そうと猿山隊員と休養明

けにC1に泊り込み高所順応を行なう事にした。その日C1にはお昼過ぎに

着き、時間があるのでもう少し上部まで行ってみた。雪稜を数百m登り小ピ

ークに立つと、今まで尾根にじゃまされて見えなかった周囲の山々が目に飛

び込んで来た。六、七千m級の険しい山々が遥か彼方まで連なり、個性的な

それぞれの姿を主張するがごとく大空に向ってそびえ立つ様は、まさに壮観

である。私は雪の上に座り我を忘れて景色に見入った。

  八月十一日、ようやくC3が頂上直下に建設されアタック態勢が整った。

我々はいったん全員ベースキャンプに下りアタックに備えるため休養をとる

事にした。そして十二日の夕食後のミーティングでアタック隊員が発表され

た。

  「ただ今よりアタック隊員を発表します。アタックは三回に分けて行い、

シェルパ三名を含む十四人で頂上を攻めます。」

  石沢隊長のこの言葉に、それまでなごやかに談笑していた食堂テントに緊

張が走った。シェルパを抜かせば十一名、当然四名はアタックできない事に

なる。果たして私が選ばれるのだろうか。第一次アタック隊、第二次アタッ

ク隊が次々と発表されていった。私の名前はまだ無い。第三次アタック隊員

も次々と名前が呼ばれていった。そして最後にとうとう私の名前があがった。

私は込み上げて来る興奮を必死で押えようとした。参加できただけでも幸せ

に思えるこの遠征で、まさか頂上を目指す事ができるなどとは夢にも思わな

かった。しかも七千mの頂上に。しかし選にもれた隊員の事を思うと素直に

喜んでばかりもいられない。皆登るつもりでここまでやって来て、その為に

どれだけ苦労して来たのだろう。やはり全員で頂上を目指したかった。残念

である。しかし選にもれたある隊員から「よかったな。とにかく頑張って頂

上に立ってくれよ」と肩を叩かれた時、私の気持ちは吹っ切れ、

「よし、とにかく全力を尽くし必ず頂上まで行ってやる」

と燃えるような闘志がふつふつと心の底から湧き上がって来た。

  アタック前夜、私はなかなか眠れなかった。すでに第一次アタック、第二

次アタックは成功し、残るは第三次アタックのみである。天候は登山期間中、

朝夕は必ず崩れたが、アタックを開始すると同時に奇跡的な好天が続いてい

る。明日もきっとよい天気だろう。高度障害もなくコンデションはベストで

ある。標高六千七百m地点にある狭いテントの中では、明日アタックを控え

た五人の隊員がそれぞれの思いを胸にシュラフに入っていた。私の隣では、

シェルパのミンマヌルがスースーと心地よい寝息を立てている。私は寝返り

をうち、静かに目を閉じた。すると様々な人達が浮かび上がって来た。高校

時代、私を育てて下さり今回は名誉隊長としてベースキャンプに来て、励ま

して下さった蓮実先生、遠征に行く事を快く承諾してくえた家族、様々な形

で援助、協力してくれた職場の先輩や同僚達、そして「先生頑張って下さい」

と力強い応援をしてくれた山岳部の生徒達。皆の支えがあるからこそここま

でこれた事に改めて感謝する思いであった。とにかく明日は何が何でも頂上

に行ってやろう。そう固く心に誓い、やがて私も浅い眠りについた。

  八月二十日、いよいよ頂上に向けて出発である。私はミンマヌル、川崎隊

員とザイルを組み先行することになった。その後をリーダーの滝田隊員、猿

山隊員が続く。最初に尾根を少し回り込み、広い台地に出た。そこにはいく

つもの大きなクレバスが、まるで悪魔の口のごとく開き、我々のすきを狙っ

ている様である。我々は慎重にいくつかの巨大なクレバスを迂回した。後続

の滝田、猿山隊員が遅れ始めるが、気にせず先に行ってくれという事なので

ペースを落とすことなく進んだ。天候は今日も素晴らしい。雲海が下界を覆

っているが、気温の上昇と共にやがてその雲は我々を包み込むに違いない。

ミンマヌルが、何とかその前に頂上に行こうと我々をせかす。台地を過ぎ、

頂上に続く雪稜に取り付く頃にはすでに視界は悪化して来た。標高は七千m

に近付いておりさすがに息が苦しい。十数歩歩いては止まり、呼吸を整え又

十数歩歩いては立ち止まる。ゆっくりとゆっくりと我々は頂上に近付いて行

った。やがて頂上に覆いかぶさる様に続いていた斜面がゆるやかになり、前

方に第一次アタック隊が置いていった竹竿がガスの中で確認できた。もう少

しだ。足はまるで鉛が入った様に重かった。その足を引きずる様に一歩又一

歩と進みそしてミンマヌル、私、川崎隊員の順で北京時間十三時三十三分と

うとう頂上に立った。それから四十分遅れて滝田隊員、猿山隊員も頂上に到

着した。我々はしっかりと抱き合い、互いの健闘を称え喜びを分かち合った。

このあふれる様な感激を私は一生忘れないだろう。私は無線でベースキャン

プにいる隊員達に向かって何度も「有り難うございました」と涙をこらえな

がら繰り返した。そして記念写真を撮る為に、ザックの中から日本を発つ時

山岳部の生徒達から贈られた、寄せ書き入りのスカーフを取り出すとそれは

頂上を吹く風にはためき、その向こう側に日本にいる生徒達や家族、友人達

の顔を見たような気がした。私は確かに今、七千二百六m、ニンチンカンサ

の頂を足下に踏みしめているのである。

  ニンチンカンサの頂は確かに遠かった。しかしそれはBCから頂上までの

距離だけではなく、ここに来るまでの私自身の道程も含めて「遠い頂」を実

感している。私は生まれつき足が弱く、運動会の駆け足では常に後の方、お

よそ運動とは縁がなく何をやっても足手まといであった。そんな私が高校時

代に山と出会い、トレーニングと山行を重ねる毎に体力を付けて来た。そし

ていつの日か海外の高峰に挑もうという夢が芽生え始めたのである。大学時

代には集団行動を嫌い一人で丹沢や北アルプスを駆け巡った。大学を卒業し

「山を通して生徒達に夢を与え自らもアルピニズムを追求する」という希望

を抱き教師になった。しかし様々な現実にぶつかり思う様にならず、いつし

か夢が薄れて行った。教師になって四年目、ようやく自分の理想を行動に移

せるチャンスが訪れ、その様な時に舞い込んだのがこの遠征の話であった。

思い切って合宿に参加したが、久しぶりの冬山であったため、徹底的に叩き

のめされた冬の剣岳。その口惜しさをバネに始めたトレーニング。この様な

過程を経て、一歩一歩確実に、苦しくともあきらめず登り詰めた頂であった。

様々な挫折や紆余曲折はあったが、きらめないで本当に良かったと思う。学

校での帰国挨拶で「夢はあきらめず努力すれば必ず実現する」と生徒を前に

語った言葉をいつまでも忘れずにいた。

  今、私の職場の机には二千年に予定されているコングール峰の写真が立て

かけてある。すさまじい岩壁と氷河で武装したこの山は、相当困難な登攀を

強いるであろう。いずれにせよ今の私の目指すべき頂はコングールの頂であ

る。誰の心の中にも「遠い頂」は様々な形で存在するだろう。私もかけがえ

のない明日の自分のために、今歩き出した所である。