登拝山行の記録「茶臼岳登拝」 

                             浅川 浩三

                             平成4年8月

 日本では山は、信仰の対象として随分古くから登り続けられてきた。登山が

近代スポーツの対象となった明治時代には、日本の山は殆ど踏破されていたと

いう。それ故か山頂の多くには、山の霊を祀る祠がある。私は、若い時分、こ

れらを見るにつけ、あまり良い感じを抱かなかった記憶がある。信仰登山など、

暗くて陰気臭いとさえと思えた。若々しく明るいスポーツ登山に魅力を感じて

いたのであろう。しかし、不思議なもので年を重ねるうちに、いつしか信仰登

山に対し、違和感がなくなっていた。

 近頃では、山頂に祀られている古い祠に出会うと、昔の人達の思いが時を越

えて、私に何かを語りかけてくるようにさえ思える時がある。何時の時代に登

拝が途絶えてしまつたのか分からない山、その山の山頂に祀られている古い祠

は、人間の移ろいやすい心を寂しくも象徴しているかのようである。こんな祠

に出会う度、若い頃しゃにむに続けた登山にはなかった、静かな気持ちが体内

に宿るようだ。

 高い山の頂に霊が宿る。山に登ったことのある人なら、誰でも一度はそんな

思いをしたことであろう。こんな気持ちが何時とはなしに大きく膨らみ、茶臼

岳を単なる登山ではない、登拝を目的とした山行をして見たいと思ようになっ

たのである。そして、これを実現させたのは、思いもよらなかった九日間の病

院での入院生活であった。人間は丈夫な時はあまり考え事をしないものである

が、この時ばかりは自分についてあれこれと考えさせられた。そして、退院か

ら数えて48日目の送り盆の日にやっと茶臼岳登拝が出来たのである。

 峠の茶屋

 いつものように東北自動車道を利用して、那須街道に入ると小雨が降ってき

た。車を進めていくうちに雨も上がり空が明るくなってきた。峠の茶屋駐車場

に着くと、一年に一度あるかないかの真夏の青空が広がっていた。那須野ケ原

には、真っ白な雲海が何処までも続いていた。那須でこんな青空の下の雲海に

出会えるのは初めてのことであった。まさに登拝日和であった。

 既に駐車場には沢山の車があり、登山者も多く見かけられた。登拝用の衣装

に着替えるには少々抵抗を感じた。ここで、こんな格好などした人を一度も見

かけたことがなかったからである。他人の目が気になる衣装とは、これが登拝

の正式な衣装であるか否かは知らないが、自分でこれで良しと勝手に決めたも

ので、昨年友人と始めた観音霊場巡礼用の衣装である。白衣の上に笈摺(おい

ずる)を羽織る。その笈摺の背中は「南無観世音菩薩」と筆字で書いてある。

腕には手甲を付け、白ズボンに脚絆、足には白足袋に草鞋履きである。首には

頭陀袋を下げ、菅笠を被って、杖と御詠歌用の小さな鐘を持つ。ようするに、

人の遺体を棺に収めるときの白装束姿である。

 そして、頭陀袋には般若心経の写経を一枚と、教本を一冊、それにちいさな

水筒を準備した。出発前は、白足袋に草鞋履きでは、どこまで行けるか心配で

あったが、歩き始めるとすぐ草鞋が足に馴染み、つま先を岩にぶつけぬよう注

意して歩くと、結構歩きやすいことに気付いた。空は、この日のために晴れて

くれたかのように青く澄んでいた。この中を一歩一歩足を進めることとなった。

いつものような重いカメラ機材を背負わなかったためか、何時とはなしに足が

速くなり、次々と先行の登山者を追い越した。いつものことであったら、先方

から先に挨拶されるのだが、今日は少し事情が違っていた。私が異様な新興宗

教にでも取り付かれている信者にでも見えたのであろう。私に一瞬視線を向け

るだけで、挨拶しようとはしなかった。そこで、こちらから、いつもより大き

な声で挨拶すると、相手から、明るくて弾んだ挨拶が返ってきた。この時、山

からだけでなく、登山者からも、私の登拝山行が受け入れられたと思った。

 樹林帯を抜けると、目に浸み入るような緑輝く朝日岳があった。太陽は一段

と高くなり、その輝きが増していた。そして、那須野ケ原には白い雲海で埋ま

っていた。めったに見ることの出来ない光景がいっそう登拝の感情を高めてく

れた。白装束に身を固めていたためか、風もなく強い日差しを受けても、汗は

それ程出てこなかった。いつものように、一歩一歩しっかりと足を進めた。決

してゆっくりとしたペースではなく、軽快な足取りとなった。左手に持った鐘

の音が一歩足を進める度に、明礬沢の谷底へ吸い込まれて行くように響いて行

った。


 峰の茶屋

 峰の茶屋には10人位の人か休んでいた。相変わらず、私の異様な格好には

興味があるらしく、何気なく視線をこちらに注いでいるようだった。相手から

先に挨拶をしてくれなかったが、こちらから大きな声で挨拶すると、木霊のよ

うに挨拶が返ってくる。本当に心地よいものであった。峰の茶屋から、北西に

目をやると、白い雲海の中に三倉大倉の山並みが静かに佇んでいた。まるで一

度は感知したいと思っていた山の霊が、すぐそこで息付いているかのようであ

った。

 小休止のあと、更に山頂に向かって足を進めた。登山道はいよいよガレバの

連続となる。しかし、不思議なことに足は痛くならなかった。白足袋と草鞋履

きでは、当然足にかなりの痛みを覚えること覚悟していたのだが。人間の足は

意外と強いものだ。登山道は右回りとなって山頂へと続く。硫黄の匂うガレバ

を通って山の北側から東側に抜けると、太陽が正面に位置し眩しく輝いていた。

那須野ケ原は何処までも雲海が広がり何も見えない。真っ青な空の中にただひ

たすら輝く太陽に、深い感動を覚えた。

 更に、足を進めると、登山道は右に折れて茶臼岳山頂へとまっすぐに続く。

間もなくロープウェイからの登山道と合流すると、多くの軽装な登山者と出会

う。明るい太陽に照らされて誰もが輝いて見えた。自然が輝くとき人間まで輝

くのであろうか。山頂間近になると、ガレバというより、大きな岩を縫うよう

に登山道が続く。足場は角のとがつた大小の岩ばかりであったが、快調なペー

スを少しも崩すことなく山頂に着くことができた。


 茶臼岳山頂

 さすがは茶臼岳山頂である。そこには立派な祠が祀られていた。かつての白

湯山信仰の名残があるのだろうか。それは、忘れ去られた祠ではなかった。遠

い昔より、人から人へと引き継がれてきた風格が感じられた。こんな立派な祠

を現在でも守り続けている人がいるのだと思うと、ほっとするような思いがし

た。

 まず、祠に向かって拝礼した。次に頭陀袋から写経を取り出し、風に飛ばさ

れぬように小さく折り畳み、小石を乗せ祠の中に納めた。この写経は、気の向

いたとき少しずつ書いたものである。次に朝から一度も口を付けていない水筒

を取り出し、祠に全部水をかけた。そして、教本を出して般若心教を唱えた。

小さな儀式を無事済ませることができた。かつてここを訪れたであろう、多く

の登拝者達の胸に去来したものは一体何だったのかと、思いめぐらしていると、

山頂からしばらく離れたくなくなり、東の空をただぼんやりと眺めていた。

 山頂の祠にもう一度拝礼して、下山することにした。少し歩き始めて草鞋の

緒が切れているのに気付いた。応急処置をして、慎重に足を進めたためか、無

事駐車場に着くことができた。


 峠の茶屋

 駐車場は既に車が満杯となっていた。急いで車に戻り、登拝の衣装を脱いで

丁寧にたたみ、トランクにいれた。特に終始足を守ってくれた白足袋と草鞋を

大事にしまった。私は何故か巡礼の白い姿に心惹かれる。日本では、もともと

白は死を意味したと云われている。不治の病かかったり、愛する人を失って生

きる支えをなくした人達が、その昔、ただひたすらに御大師様と共に歩き、観

音菩薩の慈悲を求め続けたのが、本来の巡礼であったと云われている。巡礼の

白い衣装は、巡礼の途中で行き倒れたら、白装束のまま誰にも手間をかけず、

そのまま路傍に埋葬してもらえるからだと云われている。

 私は、不治の病にかかっているわけでもなく、愛する人を失って心の支えを

失っているわけではないが、こうした思いが込められた衣装に身を固め、昔の

人のように歩いてみれば、何かを感じることができるのではないかつ思った。

今回の登拝で、理論整然とした思いを手中に収めることが出来たとは思わない

が、普段の登山とはひと味違ったものを感ずることができた。

 普段着に着替えて、始めて茶臼岳登拝を無事すましたことが実感できた。何

かに取り付かれたような激しい山行を終えた時の、あの虚脱感とは違った静か

な充実感が胸に残った。

 一時間半の登拝行であった。