剣岳'96 と '97  
                                       植木 孝

'96

まさか自分が岩登りをするとは思わなかった。

古賀志山での練習もそこそこに夏の剣岳に出かけた。初めての本番。いやが応

にも緊張す

る。貧乏根性の俺は、菊水6本と缶ビール6本、それからバーボン6本ととて

つもない量の酒を持ち込む計画だ。しかしその計画はしょっぱなから挫ける。

それは雷鳥沢からの登りである。完全に疲れてしまった。コースタイムの倍以

上の時間をかけて剣御前小屋に到着。剣沢へのゆるい快適な下りを歩いてベー

スを張った。この試練がホンの序の口だったことは後からわかる。


試練1 台風

剣沢にベースを張りゆっくりしたのもつかの間、富山県警山岳警備隊からのメ

ガホン放送が始まった。「速攻張り綱」ソッコウは速効でなく側溝であること

が後で判明する。そう、台風が直撃するらしいのだ。山での台風は蔵王縦走の

とき以来だ。いやな予感がするものの、俺はピッケルを持ったおまわりさんと

一緒に写真に収まることを忘れなかった。

夕方までは真っ青だった空が雲に覆われるようになり、風も心なしか強くなっ

たような気がする。いつの間にか剣岳はもとより源次郎尾根や八つ峰まで姿を

隠してしまった。剣沢小屋では台風から守るべく、窓に板を打ち付けていた。

「トントントントン」というかなづちの小気味良いリズムが、風は強くなるだ

ろうという不安の入り混じった不思議な空間に静かに響き渡っていた。

それでも夕飯の冷麺をゆですぎつつ、北アルプス合宿最初の夜が始まったのだ。

風は夕方から強くなってきた。しかし運んできた大きな岩に結び付けられた張

り綱に守られた俺たちのテントは動くはずもなかった。しかしポールがだんだ

ん歪んできていたし、テント本体も内側に押されるようになってきた。それに

も増して雨が強くなってきている。

フライを通してテントの中に霧のように降り注ぐようになったのは午前2時を

回ったころだろうか。朝になっても風と雨は止まず、おしっこをしたい俺が暴

風雨の中に出たとき、周りの様子は一変していた。テントが少なくなっている

のである。いや違った。テントの数が減ったのでなくつぶれているテントが多

くなったということなのだ。便所に行ってもっとびっくり。つぶされたテント

を後にした人たちで満杯になっていたのだ。昨日の夕方に重い石を運んできた

甲斐があった。ホッ。

テントに戻った俺が見たものは、窒息寸前の柏木さんだった。柏木さんはテン

トの中でちょうどというか運悪く風上に位置しており、風をはらんでぬれたテ

ントに顔を押し付けていた。違う。テントが、柏木さんの「冷たいのが嫌だ」

と眉間にしわを寄せた彼の顔に張りつくようにしていたのだ。俺は「あ〜、俺

は風下で良かった。」と思ったのもつかの間、風向きが変わり反対の立場にな

ってしまったのだ。冷たい布が俺の顔に迫ってくる。油断をするとその布が顔

に張り付き、息ができない。これが柏木さんの辛さだったのかと認識る羽目に

なったのだ。

しかし、もっとすごいのは稲葉さんだ。稲葉さんはテントの下流側に位置して

おり、気がつくと水深8cmの池の中に悠々と寝ているのであった。枕もとに

はぷかぷかと浮いたコフェル。

次の瞬間、彼はむっくりと起き上がりそのコッフェルを利用して水位を下げよ

うと水をくみ出しているのであった。その背中を俺は忘れることができない。

停滞しかできない俺たちは、暇にまかせてテントの台風による耐風訓練場さな

がらの天場を見て回ることにした。そこにはフライを飛ばされたダンロップテ

ントの中にうずくまる寄り添った男約3名の悲しい背中があった。そのなかで、

ダントツ強かったのはエスパースのテントであった。俺たちは「次に買うなら

エスパース」と心に決めた。


試練2 初ビヴァーク

台風もやっと去った晴天。俺たちは朝早く八つ峰を目指した。近くに見える八

つ峰まであんなにも長い雪渓を下りそして登り返すとは知らなかった。取り付

きに着いたときには相当参ってしまった。我々は小口・植木と稲葉・柏木・亀

山の2チームに分かれて6峰Cフェースに挑んだ。何せ初めての本チャンであ

る。しかし、しっかりと安定したしかもフリクションばつぐんの花こう岩は素

晴らしかった。この岩は登りやすく高度を稼いでいった。ガスもうっすらとか

かって視界を無くしてくれたおかげで緊張することもそれほどなく、トラバー

スに入っていくところであった。そこまではトップを小口さんにやってもらっ

ていたが、「次、植木さんね」の一言でトップが入れ替わり、緊張の中トラバ

ースが始まった。

Uのピッチだったのでそれほど緊張はしなかったのはガスがかかっていたせい

であった。

瞬のうちにガスが晴れ、切れ落ちたリッジの上に自分がいることに気がついて

しまったのだ。それからというもの足がすくんで思うように進めない。先を行

った柏木さんと亀山んが、「そこ怖いべ〜」などとはやし立てるが一向にその

緊張は解けない。やっとの思いでテラスに着く。ほ〜っと安堵のため息が出た。

雪渓と岩が素晴らしいコントラストで俺を称えてくれているのに気がついた。

程なく全員が終了点に到達しがっちりと手を組み健闘を称えあった。

下りてきてなんぼの岩登り。

5・6のコルに向かって下降し始めた俺たちは、どんどん下降を繰り返した。

別のパーティーもついてきていた。2ピッチを降り終えて「なんか違うような

気がする。どうして5・6のコルがあんなに右にあるんだ?」と不安になって

きた。下り3ピッチ目、不安定な脆い岩をだましつつトラバースするが深いシ

ュルンドに阻まれてコルに行くことができない。

別パーティーのトランシーバ通話から下降ルートを間違えたことがやっと判明

する。「なにっ、これから登り返すってか。」。もう15:30を回っている。

そんな訳で、俺たちは別パーティーにザイルを持ってもらいながら登り返しを

始めた。時間短縮のために1本のザイルに亀山さん、柏木さん、俺の順に結び

付けて一気に上ろうと考えたのだ。しかし、亀さんは右、柏木さんは左、俺は

右と一人一人のムーブが異なるためにお互いでお互いを引っ張ることになり、

3人ともブラ〜ンとぶら下がることとなった。最後にごぼうで登ってきた小口

さんはすんごい顔をしていた。相当大変だったのだろう。その時刻18:30。

稲葉さんが「ビバークしよう」。と発言。暗い道を行くよりは良いかなぁと俺

は思った。

「ヘッテン出して」「防寒着を着て」「食料を出して」の3つの指示に対して

俺と柏木さんは、「ありません」「ありません」「ありません」の3段攻撃を

空しくするしかなかった。

ヘッドランプはベースにあるし、防寒着なるものはなく今着ているものが全て

だし、食料は飴が3個だけであった。あ〜、情けない。簡単な夕食を済ませた

後、ツェルトをかぶった俺たちは肩を寄せ合って朝を待つことになった。しか

し夜は長い。それに気温が下がってきた。かぶっているツェルトは結露してき

た。少しうとうとすると寒さのためブルッと身震いして眠れない。それに時計

に目をやるとさっきからほんの3分しかたっていない。「朝は本当に来るのだ

ろうか。」と思いたくなる時間が続く。寒さに耐えきれず、男同士で抱き合う

ようにして眠った。思ったよりも柏木さんの暖かさと不精髭が心地よい(?!)。

稲葉さんの(?)ビスケットを食べると体が温まった。そうするうちに長い夜が

東の空から明けてきた。鹿島槍の猫耳が見えてくるようになると「やっと朝が

確実にやってきたのだな。大げさながら俺たちは生きたいるのだな。」と思っ

た。10時間ずっとしゃがみっぱなしだった俺はツェルトの外に出て十分に伸

びをした。しかし、毎朝起きたらすぐにモヨオス癖のある俺は、ザイルで確保

されながらハイマツの陰で用をたすことになった。まさかそのときに柏木さん

と目をあわすとは思わなかったが。

今日は間違わずに5・6のコルに降り立ち、長い雪渓を下り、長い雪渓を登り

ベースキャンプに戻った。そこでは鍋の中で鰯ビーフンが俺たちの生還を祝っ

てくれていた。



'97

5月の烏帽子奥壁南稜で練習した俺たちは、夏にやはり剣岳に行くことに決め

た。なにせ前年に寒い思いと重い思いをした俺なので、酒は少なめ、それにシ

ュラフ・非常食・防寒着を装備してことに望んだ。天気は良好、腹の調子も良

好。剣岳が微笑む剣沢にいつものベースを張った。

1ビバークを予定して八ツ峰とチンネをやるべく、前年の天気が嘘のような快

晴の中、雪渓を下った。6峰Dフェースはなんと4時間の順番待ちであった。

それでもやはり花こう岩は快い登りを提供してくれた。登攀後、横浜労山テン

トわきの美しく冷たい流れに冷やされたトマトと缶ビールを横目で見ながら、

ツェルトを張った。熊の岩でのビバークは満天の星空に見守られ、暑いぐらい

であった。

前日の快い疲れが残りつつ、ウィンドゥズマーク頭の小口さんに驚きつつ、雪

渓を登ってくる登山者を眼下に眺めながらチングルマのわきに用をたした。チ

ンネに進むべく凍った雪渓を登り出した俺たちは、池ノ谷乗越にほどなくたど

り着いた。柏木さんを残しつつ、小口さんと2人で三の窓に向かってガレガレ

を降りていった。三の窓は快適な天幕場だと思いつつ雪渓を渡りつつ中央チン

ネに取り付く。取り付きにたどり着くと小口さんの顔色があまりにもひどい。

ここは俺がトップで行く。ガスが湧きはじめ高度感を和らげてくれる。aバン

ドをトラバース中にガスが晴れて、足元がすっぱり落ちていることに気がつい

たが、かまわずどんどん行く。予定の時間を大きく遅れつつもやっと終了点に

着き喜び合う。柏木さんの待つコルはすぐそこであった。「柏木さ〜ん」と呼

びかけると、見えるところまで出てきて「ふぉ〜い」と返事してくれたのはう

れしかった。そのコルまで登りベースへとくだった。真砂沢に着いたときには

へとへとになっており、ピーナツバターをなめまくった。そこからはばてばて

になってやっとの思いでベースに戻った。次回のベースは三の窓か熊の岩にし

ようと思った。