私的山へ行くわけ


                                            佐藤 一博

ゴンベロ30周年記念号の原稿提出期限は確か、昨年の春頃だった気がする。

あれから季節は夏、秋と移り変わり、今は年も明け、冬真っ最中。

歳のせいにはしたくないが、ここ5年程は月日の経つのが早い。

さて、ゴンベロ原稿である。

改めて考えてみると、なかなかふさわしいお題目が思い浮かばない。

最近の山、印象に残る山、夏山、あまり経験無いが、冬山と考えてみた。

結局、概念的ではるがどうして私は山へ行くのか、そのわけを考えてみるのも

悪くないとの結論に達した。



イギリスの著名な登山家マロリーは、どうして山に登るのかの質問に、「そこ

にあるから」(Because it is there)と言う有名な言葉を残した。

彼は衝動的に登山に駆り立てられていたのだろうか?

本多勝一は著書の中で、マロリーは「そこに山があれば」登らずにはいられな

い程、山好きだったのでは無く、「そこに処女峰チョモランマがあるから」だ

と解説している。

彼にとっての登山は、他人のやらぬことをやるという創造的精神から出発した

表現型であり、二番手では意味の無いものだったと言うのである。

当時、言葉の深層にそんなメッセージがこめられていたのかと印象深く読んだ

事を覚えている。

実際、第一線の登山家と呼ばれる人達は未踏峰、より難しいルート攻略、無酸

素登頂など、未だ誰も成功していない方法にこだわり続けている。

そういう生き方もある。

しかしながら、私も含めた多くの登山者は別の理由で山へ行く。



最近登山を始めた中高年夫婦は、夫婦で楽しめる趣味が、

大学山岳部員は、大いなる達成感と夜の酒盛りが、

アマチュアカメラマンは、朝日に染まる山並が、

山岳信仰者は、縦走路にたたずむ地蔵仏が、

それぞれの理由かもしれない。



私の場合、山へ行くわけは何だろうか?

私は、山で風景,動植物,スナップ写真,山小屋や下山後の食事,山域までの道中

全てを楽しんでいる。

と考えると、テレビでよくやってる旅紀行番組と似ているのに気づいた。

私の登山は冒険でも、トレンディ物でもなく、旅の延長型であるらしい。

(旅紀行番組を旅と扱うのには少々疑問が残るが、文脈上許して頂く)

思い起こせば6歳の夏の日、何の目的だったのか覚えていないが、友達と2人

夕方暗くなるまで歩いた大冒険。(今考えてみると6キロ程だった)

中学生の時、烏山線の無人駅で下車し、橋を越え、トンネルを越え、線路伝い

に歩った小旅行。

中学,高校,大学時代と、電車での東北,北海道周遊。

就職後の海外旅行。

私の登山は基本的にはこれらと同列に位置する。

ただ大きく違うのは、これら以上に山が魅力的だった事である。

山に興味を持たない人は、苦労してまで山に行く訳がわからないだろう。

厳しい登りが続いても、それに優るものが山にはある。

登頂したときの達成感はもちろんだ。

頂上で食べる飯は、コンビニのおにぎりとビールでも、周りの風景をおかずに

この上ないご馳走となる。

登りも苦しいだけでは無い。

登って行くにしたがって、周りの森林はブナからシラカンバにかわり、高木か

ら風雪に耐え地を這うような低木へと移り変わる。

植物も低山の物から、背丈のわりには花が大きく鮮やかな高山植物へと移り変

わる。

こんな様子を眺めながら、山を登るのは非常に楽しい。

と、理由をあげればきりがないが、私が山に行く一番の理由は、自然を感じる

ためである。

日本の平地には町が広がり、昔のままの自然を感じられる場所は少なくなって

いる。

だが、山は今でも自然を感じられる場所だ。

人それぞれ、感じ方は違うだろうが、私は自然との接点を感じる。

何も考えずに、目、耳、肌、そして全身で周りの空気を感じ、その場に身をま

かせるひとときが何物にも代え難く、ついつい山に足が向く。

(岳友会に入ってからは、仲間との酒宴の魅力も大きいのは確かだが...)



忙しくて月に1度も山に行けないと落ちつかない。

結局のところ、山中毒(私は軽度だと思う)というわけか。



映画『ブレードランナー』で、人造人間が死ぬ間際、敵対していた人間に、生

身の人間には体験できない宇宙での数々の体験談を満足げに話すシーンがある。

彼は、人間の一生以上に生きた。

私も山に行かない人達よりは、ささやかながら良い経験をしていると思う。

その分、人生もうけものだ。



今年の5月で岳友会は30周年を迎える。

私の30年後は65歳。

どんな生活を送っているだろう。

春の釈迦ヶ岳をヤシオツツジを楽しみながらゆっくり歩く姿が思い浮かぶ。