友人を想う
池田 公夫 西の空が茜色に染まり、日光の山々が黒いシルエットとなり1日が終えよう としている。そんな風景を見ながら時々亡くなった友を想う事がある。 故、藤田五十二君(平成9年8月交通事故死) 私と藤田君とは同じ年で、中学、高校と同じ学校で学んだ仲であり、彼のお 姉様は私の小学校の担任で、何か縁がありました。中学、高校の頃はお互いそ れ程友人として強く意識していませんでした。彼は高校時代、蓮実敦夫氏を師 とする山岳部で登山活動し、大学時代は東京朝霧山岳会に所属し、冬山や岩攀 りにと行動を広げていったのです。私はその頃大学のワンダーフォーゲル的な クラブに所属し、知床連峰や宮ノ浦岳の頂をめざす縦走的登山を行なっていま した。 そんなとき彼が岩攀りをやってみないかと誘ってきたのです。朝霧は社会人 山岳会で大学生が少なかったので、平日、授業をさぼって岩攀りをするパート ナーが必要だったんですね。私も縦走登山に多少飽きてきてたので彼の誘いに のっていきました。 最初は東丹沢の水無川本谷や勘七の沢の初級コースから西丹沢の悪沢など上 級コースの滝の直登をやりながら岩攀りを覚えて行きました。本格的な岩攀り は朝霧の夏山合宿での穂高岳でした。滝谷ドーム西壁、雨の第一尾根、奥又白 谷の四峰正面壁北条・新村ルート、この3本のルートが私の登山観に大きな影 響を与えました。この時藤、田君は人工登攀を覚え始めており、庭野さんと屏 風岩東壁緑ルートへ挑んだのでした。私は西原さんと水や食糧を持って屏風の 頭まで迎えに行きました。庭野さんは元気でしたが、藤田君はヨレヨレでした。 今でこそ屏風岩東壁は一般的ですが、二十数年前の東壁はまだまだ一流であり ました。その後、彼とは谷川岳一ノ倉沢南稜を攀り、お互いに栃木県内へ就職 し、学生時代に別れを告げたのです。 卒業後は、彼が教員であり、日曜日も生徒の部活動指導で共に攀るチャンス は少なかった。それでも昭和四十八年初夏の幽ノ沢V字状岩壁右ルート、紅葉 の一ノ倉沢コップ正面壁緑ルートを二人で攀った。この緑ルートが、彼とザイ ルを組んだ最後のルートでした。彼は教師として、家族人として、人生に全力 投球していくのでした。 私も相も変わらず三十歳近くなっても青臭い事を言いながら登山を社会から の逃避の場所としていいかげんな人生を過ごしていました。彼の登った屏風岩 や朝霧が誇る夏冬初冬ルートの北岳バットレスピラミッドフェース〜第四尾根 〜中央稜無雪期継続等々・・・・。 そんな私もいつしか親となり藤田君が教務主任を務める泉中学校に娘を通わ せることになり、彼の助言と存在感は心強いものでした。ところが突然彼は還 らぬ人となってしまったのです。告別式の日、涙が止まりませんでした。涸沢 での幕営、一ノ倉沢出合いの仮眠、丹沢へ向う小田急線、彼の母校、東京電機 大学の実験室、みんな懐かしい事ばかりです。藤田君は岳友会との交流はなか ったが彼の思想の影響か、岳友会でも衝立岩正面壁を攀った江連(伸)や高橋 (敬)など強いクライマーが成長しました。 登山は決して人生の全てではないが、その行為中から人の生き方、考え方に 少なからず影響を与えてくれるものと考える。彼はコップ正面壁緑ルートを最 後に、私はアルファールンゼを最後に一線を退いた。コップのスラブは藤田君 との思い出の場所です。