山行報告2
このページは何らかの理由で岳友会定例会で山行報告が行われなかった分の山行記録です。
通常の「山行報告」は、ほぼ山行実施時期による時系列で掲載されています。記録を参考にされる方々の検索に不都合が生じないようにするため、ホームページ管理者の判断で別枠で掲載するものです。
山行報告 期 日 :’2000年 3月 5日 行 先 :観音山 メンバー:浅川(単独) 旧会津中街道野際新田の裏山である観音山に行って来ました。雪が締まっていて、あっけなく登ることが でました。 3月5日(日)曇り時々薄日 昨日から急に暖かくなり、今日も4月のような暖かな朝を迎えた。道路の雪は一気に解けたらしく雨の日 のように濡れていた。田島を抜け、野際新田の手前2`位まで路面に雪はなかった。しかし、今年の積雪は 、例年並みとのことで、暖冬の割には多かった。野際新田近くに来ると、昨日からの暖かさのため、路面の 雪が腐りぐちゃぐちになっていた。車輪にチエーンを掛けてもハンドルが取られて、前進するのがやっとで あった。なんとか野際新田の上水道設備のある少し上の、除雪された駐車スペースに着いた。丁度、8時で あった。関谷のコンビニで調達したおにぎり1つとみそ汁で朝食とした。 8時20分、駐車場を後にする。この辺りで、積雪は1m位あるだろうか。気温が高く雪は腐れていたの で、駐車場からカンジキを着けた。先ほど観音沼公園入り口の駐車場脇を通りすぎた時、登山パーティと思 われる人達がテントを畳んでいた。昨日、観音山に登ったのかも知れない。もしかしたら先行トレースがあ るかも知れないなどと淡い期待をもった。「会津百名山」のガイドブックと2万5千分1の地図で観音山の 取り付き地点を確認した。ガイドブックに示されている鳥居から少し先に行った杉木立の中の小さな沢から 入ることにした。しかし、先行パーティのトレースはどこにもなかった。鳥居の少し手前に、トレースが鳥 居の奥の神社へと延びていた。しかし、この時点でこれが観音山へのトレースとは知るすべもなかった。 沢の右側をゆっくりと詰めることにした。昨日からの暖かさで雪の表面は腐っていたが、意外にも雪は締 まっていて、膝まで足がもぐることはなかった。解けた重い雪であったが、歩きにくいことはなかった。 すぐに杉木立を抜けると明るい雑木林となった。青空を見ることはなかったが、時折薄日も差して暖かくな った。フリースのセーターを脱ぎ、カッターシャツの上にシングルのヤッケ1枚になった。10分も行くと 、先ほど鳥居脇に確認したトレースに出会った。「やっぱりあれで良かったのか」と思った。 先行トレースを見たとたん、急に緊張感から解放された。それからはルートファィンデングの緊張感がな くなり、のんびりと足を進めることができた。しかし、人間とは身勝手なもので、緊張したルートファィン デングがなくなると、何となく物足りなくなった。トレースは確かにガイドブックに記された通り付けられ ていた。明るい雑木林の中で緩やかな登りが続き、ヤブも少なく、先行トレースのお陰でカンジキが効いて 快適に足を進めることができた。 9時15分、1,312m地点と1,426m地点の鞍部着いた。樹林の合間から足下に鎧沢が見えた。 三倉・大倉山は上部が雲に隠れていたが、それとすぐ確認できた。鞍部からは、行く手左に折れて北東方向 に尾根を辿ることになる。アスナロがぽつりぽつりと混じり始めるが、この辺りまではどうやら二次林のよ うに思われる。地図によると、ここからは随分等高線が詰まって急登を予想していたが、それ程のことはな かった。しばらく行くと尾根は稜線状となり、行く手右側が大きく開け、旭岳が大きく見えた。稜線にはそ こそこの雪庇が張り出し、昨日からの暖かさであちこちに亀裂が走っていた。カモシカの足跡も現れ、いよ いよ深い雪山に足を踏み込んだ思いがした。 10時20分、1,426m地点に着く。先行トレースはここで終わっていた。今朝、観音沼公園入り口 の駐車場で見かけたパーティは、昨日、腐れ雪のラッセルに悩まされ、やっとここまで辿り着いたが、引き 返したのであろう。無雪期は、ここはヤブがひどいところなのだろうが、今は深い雪の下に隠れ良い展望台 となっている。ここ からは旭岳が更に大きく見え、観音山の丸いなだらかな山頂がすぐ近くにあった。 山頂の下方に広がるブナの樹林は、びっしりと霧氷に覆われ氷の花が咲いていた。 ここまで来るといよいよ太古のままの原生林となった。アスナロは少なくなり太く短いクロベが混じるブ ナの原生林となっていた。気温も下がってきて薄手の手袋だけではいられなくなった。先行トレースがなく なっても雪の条件が良く、ルートは明確でカンジキが効いて快適に足を進めることができた。しばらく行く とクロベは殆ど姿を消し、ブナの原生林となった。梢には真っ白に霧氷が付いていた。この時間になっても 霧氷が落ちないのは曇っていて太陽の光が直接当たらなかったからであろう。ブナの原生林と云っても、会 津駒ヶ岳や東北の山で見かけるような巨木があるわけではない。太く短く曲がりくねったものばかりである 。しかし、これがかえって太古の面影を残しているように見えた。更に足を進めるとブナは疎らになり、風 雪に逞しく耐えている背丈の低いクロベが再び現れた。山頂間近になると、今度は五葉松が現れ、太く短く 曲がりくねった盆栽のような見事な五葉松があった。 10時50分、観音山に着く。山頂は丸く東西に広がっていて、樹林は雪に埋まり腰ぐらいまでしか出て いなかった。どこでも自由に雪洞が掘れるほど積雪は十分にあった。山頂から遮るものは何もなかったが、 三倉・大倉山の山稜はどんよりと雲に覆われていた。 しかし、大峠、旭岳、甲子山、大白森山、小白森山、二岐山、大戸岳、小野岳等近くの山々は全て確認でき た。ここで話すのも腹立たしいが、大白森林道は痛々しく山を傷つけ、旭岳手前のピークに設置された大き な電波反射板は甚だしく自然の美観を損ねている。ここに立っていると、山の持つすばらしさと人間の欲望 の醜さが同時に目に飛び込んでくるような思いがした。 観音山から雪の状態がこれまで辿ったルートと同じような条件なら旭岳まで2時間ぐらいで行けそうに見 えた。2時間で行けるなら、野際新田から日帰りも可能であろう。しかし、観音山から延びている尾根を詰 めた場合、旭岳の最後の登りが急な岩場となっていて、岩氷が真っ白に付いているように見える。岩場の付 け根から左側に簡単に巻けなければ登攀用具が必要になるかも知れない。 山頂から少し東斜面に下り昼食とした。こんなに簡単に登れることを事前に知っていたら、酒を持ってきて 熱燗で一杯やりたかった。しかし、これは叶わぬ思いとなった。11時45分山頂を後にした。 下山は何の迷いもなく同じルートを辿ることにした。天気は相変わらずすっきりしなかった。しかし、風 も終日弱く、気温も予想以上に上がらず登山としてはまずまずのコンデションであった。雪山の下りは、傾 斜があまりきつくない場合は快適である。1時間10分ほどで駐車場に着いた。今朝来たときには1台の車 もなかったが、私の車の脇に軽の4駆が置いてあった。中には山スキー用のスキーが1台置いてあった。 私と同じような物好きが大峠方面に入ったのであろう。帰路、大倉山登山口を確認するため音金の部落に立 ち寄ってみた。道路が除雪されていなかったので登山口まで車を入れることはできなかったが、地元の人に 聞いて登山口を確認した。今日1日の汗は「夢の湯」で流した。 [反省] 1.1,426m地点から先発のトレースがなくなり、不安になって数カ所に赤ビニールテープを木の枝に 付けた。下山途中、取り外すべきであった。この山には目印など1つもなかったのに山を汚してし まった。 [コースタイム] 3月5日 野際新田・上水道設備上の駐車場(8:20) → 1,312地点と1,426地点のコル(9:15) → 1,426地点(10:20) → 観音山(10:50〜11:45) → 1,426地点(12:10) → 1,312地点と1,426地点のコル(12:25) → 駐車場(12:55)
山行報告:倉手山 期 日 :’99年11月14日(日) 行 先 :倉手山 メンバー:浅川浩三(単独) 紅葉を求めた今年最後の撮影行のついでに、飯豊山麓にある倉手山に登ってきました。 11月14日(日)晴れ 美しい紅葉を求めて、あちこち出かけて見たが、今年はどこも思わしくなかった。最後の望みを賭 けて晩秋の紅葉を期待して写真を目的に飯豊山麓に足を運んでみた。そのついでに、前々から一度登 ってみたいと思っていた倉手山を登ることにした。倉手山は標高952.5mの山で、長者原と飯豊 山荘のほぼ中間に位置し、登山口から標高差が600mほどあり、飯豊山の展望に勝れていると聞い ていた。 昨夜は、飯豊山荘近くの駐車場にテントを張り一人一夜を過ごした。猿の群の騒ぎで目を覚ました。 ここには、しばらく登山を中断していた間、何度も岩魚釣りに足を運んだものである。写真を初めて からは山とブナの原生林に魅せられて、時折足を向けるようになった。 今日は、昨日の強い風も治まり静かに晴れた。標高が大して高くない割には朝の冷え込みはやはり 東北の山麓である。うっすらと霜が降りていた。テントをたたみ車で登山口に移動する。玉川渓谷の 紅葉は殆ど終っていたが、僅かに残った紅葉が谷筋に点々と見えた。登山口の近くにある空き地に車 を置いた。後で気付いたことであるが、この空き地は登山者用に作られた駐車場であった。時間が早 かったためか、他の車は1台もなかった。 6時30分、登山口を出発する。登山口には「倉手山登山口」と記された標識が立っていた。 飯豊山という人気のある山がすぐ近くにあるので、こんな山に登る人などごく僅かであろうと思っ ていた。登山道は思いの外良く整備されていた。登り始めからいきなり急登となり、階段が付けられ ている。飯豊山系特有な渓谷沿いの急斜面である。樹林は伐採が以前に行われたためか、あるいは豪 雪のため大きくなれないのか太い木はない。針葉樹はほとんどなく、ブナやミズナラを主体とした落 葉樹林ばかりである。葉は殆ど落ちてしまい初冬の装いで、落ち葉にはうっすらと霜がついていた。 きのこがないかと、倒木や朽ちかけた木の根本を注意深く見ながら登ったが、欲しいときにはなかな か取れないものである。しばらく歩いているうちにやっと1食分のクリタケが取れた。今夜の酒のつ まみにと、リックにそっと入れた。本命はナメコであったが、遂に見つけることができなかった。 行程の中程まで行くと、展望の開けたピークに出た。ここからくの字状に右折し、なだらかな尾根 筋を行くことになる。疎らな樹林の尾根筋なので展望は悪くない。しかし、標高が低いので遠くまで の展望は望めない。なだらかな尾根筋はすぐ終わり急登となる。この急登もそれほど長くは続かない。 急登を越えると再びなだらかな登りとなる。ここまで来ると豪雪地帯特有な、根本が太く曲がりくね った丈の低い樹林が目に付くようになる。更に足を進めると平坦な場所に出る。そこは樹林の混じる 湿地となっていて、原生の面影が色濃く残っていた。この小さな湿地を通り過ぎると小高い丘の様な ところ出た。そこが倉手山山頂であった。山頂の標識と三角点がすぐ目に付いた。丁度、8時だった。 山頂から南側には、飯豊連峰が大きく立ちはだかるように見えた。北股岳の付け根にある梅花皮小 屋もくっきりと確認できた。しかし、期待していた雪の飯豊ではなかった。例年なら11月も中旬に なれば飯豊山は雪化粧をしていることであろうが、残念ながら期待通りとなっていなかった。山頂は もともと細い落葉樹林に覆われていたことが伐採跡からすぐ分かった。近年、地元の人達が展望を得 るため登山道の整備と合わせ、山頂の南側の一角を伐採したのであろう。期待した飯豊連峰に出会う ことは出来なかったが、誰もいない山頂でのんびりと撮影を済ませ、コーヒータイムとした。しばら くくつろいだあと、山頂から温身平に続くと思われる山道を少し辿ってみると、しばらくはなだらか な下りとなっていて、ブナの原生林が現れ始め、急な下りとなる。ここは登山道というよりは山仕事 のための作業道と思われる。下山後の予定があったので、ここで山頂に引き返した。 山頂に戻ってみると、驚いたことに数人の登山者が休憩していた。話を聞くと、ここは地元では名 の通った山で、飯豊連峰の展望を楽しめる格好のハイキングコースで、紅葉時期はここから温身平に 下り飯豊山荘に出て、周回するコースが魅力的とのことであった。9時、山頂を後にし、下山の途に ついた。登山口に着くまでのほぼ1時間の間に15人位の登山者に会った。 10時、登山口に着く。期待した雪の飯豊を見ることもできず、また小さな山旅であったが、ここ には、私が求め続けている原生の息吹があった。 [登山を終えて思うこと] 何時も山を下りると、大した山行でもないのにガツガツしてしまい一抹の寂しさが残ってしまう。 紅葉の美しい何時の日か、一人のんびりと倉手山から温身平に出て、飯豊山荘の湯につかりぼー としてみたいものだ。 [コースタイム] 11月14日 登山口(6:30) → 倉手山(8:00〜9:00) → 登山口(10:00)
山行報告:越後駒ヶ岳 期 日 :’99年10月9〜11日 行 先 :越後駒ヶ岳 メンバー:浅川浩三・他2名 今年の紅葉はどこに行っても冴えないとの話を耳にするばかり。それでも、もしかしたら美しい紅 葉があるのではないかと越後駒ヶ岳に行ってみました。結果はやはりだめでした。しかし、紅葉はだ めでも好天に恵まれ、楽しい山歩きができました。 10月 9日(土)霧 今回は、檜枝岐を経由し銀山湖の湖岸道を走り枝折峠に出た。既に枝折峠にある駐車場は満杯とな り、駐車場近くの道路脇も路上駐車で一杯であった。5年前、この連休に来たときはこんなに車は多 くなかった。日増しに百名山ブームが広がってきた証なのだろうか。 9時20分、枝折峠を出発する。福島県に入るまで快晴であったが、県境を越えると次第に雲が多 くなり、枝折峠に来てみると、やっと薄日が射す程度の空模様となっていた。今日は関東及び甲信越 地方は高気圧にすっぽり被われるとの天気予報が、すっかり当てが外れてしまった。駒の小屋は、連 休なので混雑することを予想してテント泊まりとしたので、いつもより重い荷となった。しかし、重 い荷を見込んで昨夜は十分睡眠を取ったので苦しい登りとなることはなかった。 登山道は、峠から尾根筋を行くことになるが、大きな原生林に乏しい。明神峠周辺にブナの原生林 が少し目に付く位である。伐採してしまったのか、豪雪のため大きく成長出来ないのか定かではない。 尾根筋はミズナラを主体とした落葉樹林が、標高が高くなるに従い丈が低くなり森林限界まで続く。 なだらかなアップダウンを繰り返し、更に足を進めると何時の間にか霧の中に入り視界がなくなって いた。駐車場の車の混雑を反映してか登山客は多かった。11時を過ぎる頃から、早朝出発組は山頂 から次々と下山してきた。百草の池を過ぎる辺りから樹林の高さは背丈程になる。駒の小屋への最後 の登りはスラブ状となり樹林は疎らになった。天気が良ければ展望に事欠かないのであろうが、霧の 晴れる様子はなかった。 2時20分、駒の小屋に着く。幕営の受付を済ませ、小屋前の広場の小さなスペースに、隣のテン トとくっ付き合わせるように我々のテントを張った。小屋から少し西斜面下のテント場は、既に満杯 になっていた。5年前に来たときは小屋下のテント場もなく、小屋前の広場に4〜5張りテントが張 られていただけと記憶する。あの時は小屋が混雑し、小屋の管理人が応急に作った仮設のテントに寝 かされた。あの経験から、今回はテント持参としたのだが、予想以上の人の多さにただ驚くばかりで あった。 この日は終日霧が晴れることはなかったので、早めの晩酌を楽しんだ。相棒の1人は私と同じく山 行目的が山岳写真だったので、何時になく酒が進み話が弾んだ。 明日の天気を期待して、早々に寝袋にもぐり込んだが、隣り合わせたテントからひどいイビキが聞 こえてきて、いつもは無神経な私も寝付くのに苦労した。テント泊まりで、隣のテントからのイビキ で寝付きが悪かったのは始めての経験である。 10月10日(日)快晴 今朝は天気予報通り快晴となった。朝食前、山頂周辺で朝焼けの山を撮影する。テントに戻り3人 でゆっくりと朝食を取った。朝食後、撮影をしながら1日かけて中の岳を往復をすることにした。テ ントはそのままにして出発しょうとしたが、小屋の管理人が、今日は日曜日、天気も良いので小屋前 は登山者で混雑し、テントが休憩の邪魔になるので移動するよにと告げに来た。テントを下のテント 場に移動し、8時45分、駒の小屋を後にする。 駒ヶ岳山頂より南に少し下がったところが中の岳への分岐点である。ここまで再度登り返して、い よいよ下りとなる。なだらかな尾根筋をしばらく行くと、行く手前方に中の岳の大きな山容が目に入 る。とても2千メートル級の山とは思えない大きなスケールである。右手にはグシガハナに延びる尾 根が大きなスラブを従え突き出し、その先にはごつごつとした岩の固まりのような八海山が腰を据え ている。そして、中の岳と八海山の間には巻機山に続く山並みが遙か遠くに続いている。又、左手に 目を向ければ、荒沢岳が蝙蝠の羽を広げたように佇んでいる。更に荒沢岳の右手後方には平ヶ岳ゃ燧 ヶ岳の山並みが続いている。すっきりと晴れ渡った青空の下で、時を忘れてしまうような景観が広が っていた。 ポイント、ポイントで撮影しながら鞍部へと下りた。鞍部に下りると、しばらくの間は気持ちの良 いアップダウンを繰り返しながら進んだが、次第に登山道の整備が悪くなり、ササが覆い被さる部分 も多くなってきた。このルートのハイライト「桧廊下」は、風雪に耐えて生き延びた、ねじ曲がった ネズコの樹林帯となっていて、アップダウンの激しい痩せ尾根であった。しかも、やっとヤブを切り 開いたばかりの登山道のようで、枝を切り落とした切り口も、真新しいものばかりであった。この痩 せ尾根に樹林がなかったら、さぞかしスリルのあるところだろう。それにしても、このルートはあま り多くの人が入っていないようである。 「桧廊下」をあえぎあえぎ脱出すると、木の根や木の枝はなくなり登山道らしくなったが、小さなピ ークをいくつも越えなければならなかった。12時20分、何とか中の岳に着いた。 中の岳山頂から遙か遠く、富士山が南方向にくっきりと見えた。空には正午を過ぎても雲一つでき なかった。今来た方向を振り返って見ると、直ぐそこに駒ヶ岳が大きく見えた。鞍部にあんなにアッ プダウンがあるとは、ここから見る限り想像もできなかった。 山頂には避難小屋がある。中を覗いて見るときれいに掃除がしてあった。4年前の6月、十字峡から 入り、ここに泊まったことがある。その夜は強い風が吹き、相棒は熟睡することができなかったと言 ったが、私には信じられなかった。私は熟睡して何も気付かなかったのである。翌日出会ったテント の若者グループの話よると、テントが強風で潰され、さんざんの目に遭ったというのだ。それ以来、 酒を飲むと鈍感な私が酒の肴にされてしまう。あれからもう4年も過ぎていた。あの時の楽しい記憶 が古ぼけた小屋の中に蘇った。この避難小屋で一夜過ごしたのか、小屋の近くで数人の若者が登山靴 を脱いで草むらに横になっていた。欲しいままの展望を楽しみ、我々も、ここでのんびりと昼食を取 った。 1時15分、中の岳山頂を後にした。ところどころで撮影しながら中の岳を下った。早朝からの行 動が祟ったのか、駒ヶ岳への登り返しはひどくバテてしまつた。駒の小屋への分岐近くで、相棒の1 人と日没まで粘ったが、期待した夕景にはならなかった。写真をやらない相棒は、先にテントに戻っ た。 その夜の晩酌は、昨夜以上に盛り上がった。写真組の2人は十分撮影ができたし、もう1人の相棒 は山座同定を何よりも楽しみとしているので、始めての山で、これ以上ないような天候に恵まれ興奮 気味であった。しかし、3人とも朝早くからの行動で疲れが出たのか酒の酔いが早く、早々に眠りに ついた。 10月11日(月)晴れ 昨夜は早く寝たので3人とも5時近くに目を覚ました。テントから外を覗いて見ると、すっかり曇 り空となっていた。 「今日は、朝焼けの写真は撮れねえな。ゆっくり寝てっぺ」 「のんびり下りて、温泉にでも入って帰えっぺ」 そんな話をしながら3人とも寝袋の中でもぞもぞしていたが、相棒の1人が 「ちょくら外の様子見てくっから」と言って外に出て行った。 彼はテントを出るとすぐに戻って来て、興奮した口調で言った。 「寝てる場合じゃないよ。東の空が真っ赤だ。」 私も寝袋から飛び出し、小屋前の広場に行って見た。頭上の空には雲が一面に広がっていたが、遙か 遠く東の山並みがくっきりと見え、那須の山々も確認できた。しかも、朝焼けの最高な条件が整って いた。東の山並みの上空のほんの僅かな空間が、雲一つなく澄み切っていたのである。写真組2人は 、急ぎ小屋前の広場の突端に作られているベンチ前に三脚を構えた。既に小屋の管理人と、もう1人 のカメラマンがカメラをセットして日の出を待ち構えていた。東の空に広がる雲は次第に赤く染まり 始め、赤く染まった部分が広がっていく。自然が織りなすドラマは何度見ても感動的だ。太陽が山並 みから姿を出す直前には、上空に広がる雲全体が真っ赤に燃えた。シャッター音があちこちで鳴った。 フィルム交換の手が震え、感動の戦慄が走る。何年か前の夏、蝶ヶ岳で一度この様な経験をしたこと があるが、あのとき以来この様な出合に恵まれることはなかった。太陽が山並みから姿を現すと一気 に雲の赤い色は薄れ、周囲の山々が朝日に輝いた。しかし、東の山並みと上空の雲との狭い間から太 陽が姿を現したのも束の間、すぐ雲の中に姿を隠した。太陽が雲の中に隠れる、ほんの短い間であっ たが、幾筋かの光柱が降り注ぎ、山並みのシェルエットが浮かび上がり、墨絵の中にいるような思い に捕らわれた。 3人は今回の山行にすっかり満足しテントに戻った。ゆっくりと朝食を済ませ、9時30分、駒の 小屋を後にした。下る途中、何時の間にか雲は消え青空となっていた。1時20分枝折峠に着く。帰 路、ぬるい湯の駒ノ湯で汗を流し、六十里峠を越え只見経由で帰宅の途に着いた。 [反省] 1.山行としての反省は特になかったが、11日の朝焼けの写真を作品とすることができず残念 でならない。前景の取り込み方、レンズの選択の仕方などに課題が残った。希にみる好条件と の出合を生かせるよう、これからもっと精進したい。 [行動時間]・・・・・途中に「撮影時間」が入っているのでコースタイムとせず行動時間とした。 10月9日 枝折峠(9:20) → 駒の小屋(2:20) 10月10日 駒の小屋 ←→ 山頂周辺・・・朝食前 駒の小屋(10:00) → 駒ヶ岳 → 撮影 → 中の岳(12:20〜1:15) → 撮影 → 駒の小屋(6:00) 10月11日 駒の小屋(9:30)→ 枝折峠(1:20)
山行報告:涸沢 期 日 :’99年9月30〜10月3日 行 先 :涸沢 メンバー:浅川浩三(単独) 夢にまで見た紅葉の涸沢は、例年にない暑い夏が続いたためか、すっかり期待を裏切られ、撮影山 行予定が穂高のトレッキングに終わってしまいました。 9月30日(木)晴れ時々曇り 昨夜、新宿から急行アルプス号に乗り込んで、4時10分、松本駅に着いた。 30年も前の話だが、新宿から夜行列車に乗り込むのは大事だつた。まだ、マイカーが普及していな く、交通手段を電車に頼っていた時代である。週末ともなると、長蛇の列となってホームに並んで待 たなければならなかった。昨夜は平日ということもあってか、急行アルプス号はがら空きだつた。 昔と変わらず、松本から松本電鉄に乗り換え、島々からバスで上高地バスターミナルに着く。いつ ものようにバスターミナルの2階の食堂で朝食を取る。7時45分、上高地を後にした。8時30分 、明神を過ぎ9時15分、徳沢に着く。木々の葉がうっすらと色づき始めている。例年より紅葉が遅 れているようだ。10時10分、横尾に着く。平日のためか登山客は少ない。上高地から、平坦な道 を歩くことになるが、ここまで来ると結構疲れも出てくる。小休止して涸沢に向かう。左に巨大な岸 壁、屏風岩を見ながら先に足を進めるが、何時までたっても紅葉が目に入って来ない。1時20分、 涸沢ヒュッテに着く。早々に山小屋の受付を済ませ撮影に出かけることにした。天気はあまり芳しく なく、穂高も涸沢槍も雲に被われていた。 この時期、涸沢来る目的は何といっても真っ赤なナナカマドである。時期的には一番良いはずであ るが、紅葉に少し早いようである。しかも暑い夏に祟られたのか、ナナカマドの葉は黒ずんでいて、 これから鮮やかな色に染まる気配はまるでなかった。既に色付いているものもあったが、黄ばんでい て、鮮やかな赤い色はどこにも見つけることができなかった。小屋の後ろにある涸沢の池を覗いてみ たが、池の水はほんの少ししかか残っていなかった。それもそのはずである、カールの雪渓は殆ど消 えていた。今年は暖冬で、暑い夏が続いたためと思われる。ここ何年かこの様な状態と聞いているが 、本当に地球温暖化の傾向があるのであろうか。 結局、この日はろくな撮影も出来ずに小屋に戻った。小屋の中に入ってみると、今日は平日なので それ程混雑することはないだろうと思っていたが、次々と人が入ってきて、小屋はたちまち満員とな った。寝返りが打てないほどの混雑ではなかったが、夏の週末と同じ様な盛況ぶりであった。今では 、ここ涸沢は登山目的で来る人ばかりでなく、すっかり観光地になってしまったとのことである。ま してや、紅葉真っ盛りのこの時期、日本で一番美しい紅葉と宣伝されて久しい涸沢である。平日とて 混雑するのがあたりまえなのであろう。それにしても変われば変わるものである。 夕食後、外に出てみると小雨混じりの濃い霧になっていた。 10月1日(金)霧時々小雨 期待はずれとなってしまった紅葉であったが、何とか涸沢を撮影したく、しばらく粘ったが、時折 涸沢槍がガスの合間に見え隠れするだけで、条件は良くならなかった。遅い朝食を済ませ、10時、 涸沢ヒュッテを後にした。紅葉が期待通りであったら、ここにもう1泊して、じっくりと撮影に打ち 込んでみたかったが、紅葉の撮影は諦めざろう得なかった。そんなにこまめに来れるところではない ので北穂から奥穂に廻って見ることにした。 涸沢は大勢の人で賑わっていたが、北穂を目指して登り始めると急に人影はまばらになった。 高度を増すに従い、霧が濃くなり、時々小雨も混じるようになった。1時20分、北穂小屋に着く。 小雨混じりで、濃い霧になっていた。小屋に入ってみると、涸沢のあの混雑は一帯何だったのだろう と思うほど閑散としていた。こんな天気では、今日はもう何も出来ないと思い、早速受け付けを済ま せ部屋に入った。部屋はがら空きであった。撮影目的でここに何度か泊まったことがあるが、この小 屋は収容人数が少ないので混雑するのが当たり前で、食事を作ってもらい寝かせてもらえるだけの山 小屋と考えていた。しかし、空いている時のこの小屋は実に雰囲気が良い。すっかり気に入ってしま った。書棚に置いてあった白籏史郎の写真コンテスト入選写真集5年分に、じっくりと目を通すこと ができた。霧は日没まで晴れることはなかった。この日の宿泊者は10人足らずにとどまった。 10月2日(土)晴れ、夜雨 朝から雨は上がり、晴れていたが春霞のような薄い雲がかかり、弱々しい日の出となり、ドラマチ ックな夜明けを迎えることができなかった。撮影ポイントが小屋の周辺となるので、いつものような 早起きの必要はない。小屋のテラスの石垣の下で三脚を構え、おなじみのアングルから槍ヶ岳を撮影 した。小屋に戻り朝食を済ませ、7時30分、北穂を後にした。 涸沢岳までの間、何カ所か登山道が修復され、真新しい鎖が着いていた。後で知ったことだが、去 年の群発地震で、穂高はあちこち崩壊したとのことであった。滝谷にある、名のある岸壁も一部崩壊 したとのことであった。しばらくの間一般ルートとは云え、岩稜帯歩きは気分が良かった。風が強く なり寒かったが、9時40分、穂高岳山荘に着く。ここまでは殆ど人に逢わなかったが、山荘前の広 場には大勢の人がくつろいでいた。一休みして、奥穂高山頂へと向かう。10時20分、奥穂山頂に 到着する。ジャンダルムの撮影のため馬の背を越え、岸壁の下に広がるガレバに下りると、ここから のジャンダルムは迫力がある。しかし、北面には日陰が多く、ぱっとしない撮影条件であったが、1 人静かな撮影を楽しむことができた。 しばらくして、奥穂山頂に戻り前穂に向かった。奥穂と前穂の鞍部で、やっと出会うことができた 色付いたナナカマドを前景に前穂を撮影した。2時10分、紀美子平を過ぎ、2時50分、前穂山頂 に着いた。山頂は東西に延びる短い稜線状となっている。東端に立つと、足下遙か下方に瑠璃色に輝 く奥又白池が別天地の様に佇んでいた。クライマー達がベースにしているのだろうか、テントが池の 側に2張り確認できた。傾きかけた陽に照らされて、池の周囲の紅葉だけが鮮やかに浮かびあがって いた。空は朝から霞のような薄い雲がかかっていたが、視界が遠くまで良く、いつまでも富士が見え た。山頂には、しばらく私1人だけしかいなかったが、ひょつこりと若い青年が登ってきた。山好き な者同士とは面白いもので、2人は年齢を忘れ、すぐ意気投合してしまった。そして彼とは岳沢ヒュ ッテまで同行することになった。 3時10分、前穂山頂を後にし、紀美子平に3時30分、岳沢ヒュッテに5時10分着いた。岳沢 の下りは意外ときつかったが、若い彼と張り合って下ったため、思いの外早く下ることができた。 小屋に着く頃には濃い霧りに包まれ、薄暗くなっていた。同行者の若者はテント泊まりとのことで、 小屋の前で別れた。早々に受付を済ませ、小屋に入って見ると、登山客は予想以上に多かった。 その夜、遅くなって激しい雨となった。 10月3日(日)小雨 昨夜の激しい雨は治まっていたが、濃い霧は晴れず雨は降り続いていた。 5時55分、岳沢ヒュッテを後にする。しばらくすると雨が小雨となり、歩き易くなった。下りなの か、汗は思いのほか出ず、雨の中を歩いているにもかかわらず合羽の内側が蒸れることはなかった。 快調に足を進め岳沢登山口を7時25分に通過し、上高地バスターミナルに7時40分に着いた。一 息つく暇もなく、島々への折り返しバスに飛び乗った。乗客は島々まで私1人であった。バスの運転 手に教わった、島々駅の前の旅館の風呂に入れてもらい4日間の汗を流すことができた。 穂高は、旅費がかさみ混雑するので、いやな思いをすることもあるが、山岳写真をするものにとっ て、何度来ても飽きることがない。又、そのうち傑作を夢見て来てみたいものだ。 [反省] 紅葉の撮影山行としての下調べをもっと良くして置くべきであった。 撮影の下見だけに終わってしまった。しかし、行かずにはいられなかったのも本音であった。 [コースタイム] 9月30日 上高地バスターミナル(7:45) → 明神(8:30) → 徳沢(9:15) → 横尾(10:10)→涸沢ヒュッテ(1:20) 10月1日 涸沢ヒュッテ(10:00) → 北穂小屋(1:20) 10月2日 北穂小屋(7:30)→ 穂高岳山荘(9:40) → 奥穂高岳・馬の背(10:20) → 紀美子平(2:10) → 前穂高岳(2:50)→ 紀美子平(3:30) → 岳沢ヒュッテ(5:10) 10月3日 岳沢ヒュッテ(5:55)→ 岳沢登山口(7:25) → 上高地バスターミナル(7:40) が穂高のトレッキングに終わってしまいました。
山行報告:錫ヶ岳 期 日 :’99年9月11〜12日 行 先 :錫ヶ岳 メンバー:浅川浩三(単独) やっと思いがかなえて登れた錫ヶ岳でしたが、全行程霧の中で展望は全くありませんでした。 9月11日(土)曇り 前々から一度は錫ヶ岳に行ってみたいと思っていたがチャンスがなかった。一度、矢板岳友会の 例会で計画が提案されたことがあったが、いざ私が行きたいと言い出すと、他の人達は既に他の山 行きに気が移り、この提案は見捨てられたままになっていた。ルートが不明確で、ヤブがうるさい 所と思っていたので、少々不安もあったが単独で実行することになった。 8時30分、菅沼の白根山登山口駐車場を後にする。今回の山行は白錫尾根の撮影ポイント探し の目的もあったが、いつもの重たいカメラ機材は持ってこなかった。下撮り用の小型カメラだけと し、三脚も持ってこなかったので、久々に重い機材から解放された。コメツガの樹林帯を抜け、 10時5分、弥陀ヶ池に着く。どんよりと曇り、紅葉の時期には少し早く、池は見栄えがしなかっ た。40年ほど前、高校3年の時だったと思うが、兄貴に連れられて、ここに始め来た時の感動は 忘れられない。しかし、あの時以来何度ここに来てもあの感動は蘇らない。 弥陀ヶ池を後に五色沼に下る。10時半、沼の南岸にある避難小屋への分岐点に着く。沼の水は 煮沸すれば飲めるが、今の時期、沼の東斜面の水場は涸れることはないと思い、荷を置いて水汲み 行くことにした。水場に行くと、水量は少なかったが飲料水に使う2リットル分の水はすぐ確保で きた。水場往復に30分を要し、五色沼を後にし、避難小屋に11時15分着いた。 避難小屋に入り直ぐ昼食とした。避難小屋から、錫ケ岳往復に9時間は要すると聞いていたので、 もうどこにも出かけず身体を休めることにした。何人かの登山者が避難小屋の中を覗いて行ったが、 泊まるものは誰もいなかった。夕食時、熱燗を少々喉に通し、ほろ酔い機嫌で寝袋に入った。 9月12日(日)霧 撮影目的ではなかったが、ロング行程を考え3時半に起床する。小屋の外に出て見ると、空には 一杯星が輝いていた。喜び勇んで出発の準備をした。今日は行程が長いと思い、いつもよりしっか りと朝食をとることにした。昨夜、早く寝たので、朝早くとも十分朝食を取ることができた。いざ 出発しようと外に出てみると、辺りはすっかり濃い霧が立ち込めていた。起きた時の星空は糠喜び になってしまった。 5時、食料、水等を再確認して、避難小屋を後にした。既に足下は何とか見えるようになり、ヘ ッドライトの必要はなかったが、白錫尾根の稜線までは登山道を辿ることにした。 稜線(前白根山分岐点)に5時15分に出た。ここからは一般登山道から外れ白錫尾根をひたすら 南下することになる。しばらくはヤブは全くなく気持ちの良い尾根歩きとなる。雨量観測小屋の脇 を通り、5時45分、白根隠山に着く。この辺りも鹿の糞があちこちに散らばっていて、いかに鹿 が増えたかが良く分かる。 白根隠山から、ルートは一旦東斜面をトラバースしながら鞍部に下りる。この辺りからいよいよ 白錫尾根らしく、シラビソを主体とした樹林帯となる。鞍部から少しヤブになるが、踏み跡がはっ きりしていて、未整備な一般登山道といったところだ。しばらく痩せ尾根を行くが、すぐに広々と した短いササの斜面に出る。ササ原は鹿の獣道が縦横に走っている。しかしササは短く標識があち こちの木に付けてあるのでルートを間違えることはない。なだらかな斜面を越えると白桧岳 (2,394m)に着く。山頂は、ただっ広く三角点を確認できなかった。ガスで何も見えなかっ たが、樹林の中なので山頂からあまり展望はないことだろう。しかし、それ程密な樹林ではなく、 落葉樹林も混じり、見事なシャクナゲが群生していて雰囲気は良い。今年は随分花を付けたらしく、 その形跡の種殻が沢山付いていた。ハクサンシャクナゲなのか、アズマシャクナゲなのか、知識に 乏しい私には見分けることができなかつた。山頂からしばらくは樹林の合間にササ原が点在してい た。しかし、次第にシラビソの樹林は密になり、深い森の中を、なだらかなアップダウンを繰り返 し進むことになる。 密な樹林の中に入ると、ヤブは全く消え、林床は針葉樹林特有のコケが被っていた。このコケは 再生に時間を要するのか、希に訪れる登山者に踏みつけられ、踏跡が整備された登山道の様になっ ていた。踏跡は適度なクッションがあり、倒木も少なくきわめて歩き易かった。荷も軽かったこと もあってか、快適に足を進めることができた。しかし、残念なことに、いたるところに金属やプラ スチックの目印が木々の幹に打ち付けられていた。まるで心ない登山者が散らかしたゴミのように 見えた。目印を付けた人達は、登山者が迷わぬようにと、ボランティア精神高らかに行動に及んだ のであろう。しかし、どうしてここまでする必要があるのだろう。山はできる限り自然のままにし て置くべきと思う。少人数の人でも登山者が入り続けると、たちまち踏跡ができ、踏みつけられた 植物は死滅する。そこに雨が降ると土砂が少しずつ流され山が削り取られて行く。どうしてこの様 な、山を汚すような目印をベタベタ貼りつけ、更に多くの人を呼び込もうとするような行為をしな ければならないのだろうか。日本の山には、もう新たな登山道など必要がないと思う。敢えて道な き山に踏み込むなら、自己責任の下に地図とコンパスと高度計を頼りにして、ルートファィンデン グを楽しむべきである。そして、こうした山を大事に残して行くべきことと思う。 あまりに多い目印に憤慨しつつ、深い樹林の中を行くと水場の標識がある鞍部に着いた。ちょう ど7時だった。テントが2〜3張り確保できるスペースがあった。しかし、じめじめした感じで、 テント場としてはあまり快適な場所と思われなかった。ここまで、まだ一度も水を飲んでいなかっ たので、水の補給は必要なかったが水場を覗いてみることにした。30mも下ると、小さな沢にち ょろちょろと水が流れていた。9月は雨が多いので沢の水は涸れることはないと思われたが、1週 間も日照りが続くと水が涸れてしまうように見えた。 地図を広げて位置を確認すると、ここからいよいよ錫ヶ岳への登りとなる。あと、どの程度時間 が掛かるのか予想できなかったが、急ぎ足を進めることにした。何時になっても晴れない霧の樹林 をしばらく行くと、あっけなく錫ヶ岳山頂に着いてしまった。水場から45分、7時45分であっ た。三角点も直ぐ確認でき、いくつもの山頂を標記した看板が木の幹に打ち付けてあつた。よほど 自分の山岳会の名前を売りたいのか、でかでかと山岳会の名が書かれていた。こんなものは、山を 汚すゴミ以外のなにものでもないと思うのは私だけであろうか。山頂の東側を少し下るとササの斜 面となって開けていたが、霧が切れることがなく、展望を得ることはできなかった。宿堂坊山への 稜線が霧の中にぼんやりと下方へ続いてるが見えた。山頂から少し下りてみたが、ここから先もル ートは、はっきりしているように見えた。思いの外、早い時間に錫ヶ岳の山頂に立つことができた ので、この先のもう1つのピークまで足を延ばそうとも思ったが、霧の晴れる様子もなかったので 今回は、ここで引き返すことにした。仲間と来ら、ここで賑やかな祝杯となったであろうが、1人 静にコーヒータイムとした。 8時25分、山頂を後にした。帰路は快調に飛ばし、白桧岳に9時30分、白根隠山に10時、 前白根分岐を廻らず、直接、奥白根の取り付きに下り、避難小屋に10時30分に戻った。錫ヶ岳 は、ヤブ山のロングコースと聞いていたので、気を引き締めていたが、あっけなく往復できてしま ったので、少々拍子抜けとなった。避難小屋には誰もいなかった。のんびりと朝食を取り、下山の パッキンをした。避難小屋には心ない登山者が置き去りした大きなペットボトルが沢山あったので 足で踏み潰しビニ袋に入れ持ち帰ることにした。数えてみたら、20数個あった。 11時30分、避難小屋を後にした。途中、弥陀池近くで色づき始めた紅葉を撮影した。今回の 山行で、始めてで最後の撮影となった。下山の途中、何人かの登山者に出会ったが、私の両手にぶ ら下げているビニ袋の中を見て「こんなもの捨てて行く人がいるんですね。ひどいですね。ご苦労 さんです。」と、何人もの人が声をかけてくれた。ボランティア活動をしているつもりはなかった が、私と同じ思いをしている人が大勢いるのだなと思い、気が晴れ晴れした。 1時35分、菅沼の白根山登山口駐車場に着いた。帰路、清滝のやしおの湯で2日間の汗を流し た。 [反省] 1.ヤブは少なかった、終日霧ということもあって、ササがぬれていて、スパッツを着けていた が、靴の中に水が入り、靴の中がぐしょぐしょになってしまった。今後は、防水対策を検討す る必要あり。 [コースタイム] 9月11日 菅沼駐車場(8:30) → 弥陀ヶ池(10:05) → 五色沼(10:30〜11:00) → 避難小屋(11:15) 9月12日 避難小屋(5:00) → 前白根分岐(5:15) → 白根隠山(5:45) → 水場(7:00) → 錫ヶ岳 (7:45〜8:25) → 白桧岳(9:30) → 白根隠山(10:00) → 避難小屋(10:30〜11:30) → 菅沼駐車場(1:35)
山行報告:双六岳、槍ヶ岳、大天井岳、燕岳 期 日 :’99年7月28〜8月1日 行 先 :双六岳、槍ヶ岳、大天井岳、燕岳 メンバー:浅川浩三(単独) 昨年、天候に恵まれなかったので、再度双六岳からの槍・穂高連峰の撮影を目的に出かけて見ま した。 前半の3日間は、ぱっとしませんでしたが後半の2日間は快晴に恵まれました。 7月28日(水)曇り時々雨 新宿から夜行バスに乗り込んで、5時50分、新穂高温泉に着いた。時間を有効に使うため、夜 行バスは便利だが、睡眠不足となるのが玉に傷だ。空はどんよりと曇っていた。今日は平日なのか、 登山客は思っていたより少なかった。 6時30分、新穂高温泉バスターミナルを出発した。ここからしばらく林道を歩くことになる。 笠新道入口を左に見て、砂利道をしばらく進んでワサビ平小屋に7時45分に着いた。小屋の前の ベンチで、何人もの登山者が、楽しげにお喋りしながら休憩していた。更に林道を進むと、双六岳 登山口標高1,480mと標された標識があつた。登山道に入ってしばらくは、大きな石がごろご ろ転がっている涸沢を歩くことになる。泥道などない気持ちの良い登山道りだ。何人かを追い抜き、 また何人かの若者が元気良く追い越していった。今回の山行も撮影目的の山行なので重たいカメラ 機材から解放されることはなかった。 9時に秩父沢についた。数人が一汗かいた体を休めていた。夏山の冷たい沢水は登山者にとって 何ものにもかえがたい。さらに登り続けると9時45分、イタドリヶ原に着いた。地名の通り、背 丈もあるようなイタドリが山の斜面一面に広がっていた。ところどころにハクサンフウロ、ミヤマ キンポウゲ、シシウド等が混り、ちょっとしたお花畑となっていた。ここは気分の良い休憩ポイン トなのか、何人もの人が腰を下ろして休んでいた。イタドリヶ原を過ぎ、ダケカンバ林を抜けると 鏡平池がある。山岳写真を志す者なら、この池から一度は槍・穂高連峰を撮影したいものだ。しか し、今回もシャッターを切るほどの好条件に恵まれることはなかった。11時10分鏡平小屋に着 いた。ホットコーヒーを注文して20分ほど休憩した。北アルプスは山小屋が整備されていて、山 の品格も高く、人の混雑さえ我慢すれば、私のような写真撮影を目的とした山行にはうってつけな ところである。 鏡平小屋から登り続けること1時間、笠ヶ岳分岐に着いた。天候の回復の兆しはなく、いつまで もすっきりとしなかった。ここまで来ると高山植物も多くなり、天気が良ければここから先、しば らくは見晴らしの良い雲上散歩となるところであるが、かなわぬこととなってしまった。稜線の雪 渓は昨年より随分少ないように思われた。しかし、雪渓の少なくなった分だけ高山植物が一斉に花 咲いているのだろうか。ハクサンイチゲ、ヨツバシオガマ、シナノキンバイ、ミヤマキンポウゲ、 クロユリ等々時を得たように咲いていた。双六小屋に着く頃には、小雨混じりのガスとなっていた。 1時55分、双六小屋に着いた。雨はそのうち本降りとなった。この日、山小屋は大勢の人で賑わ ったが、1人1枚の布団に寝ることができ、夜行バスの疲れをとることができた。 7月29日(木)ガス時々雨、風強し 目を覚ましてみると、窓に雨が激しく吹き付けていた。去年もここまで来て、天候に恵まれず殆 ど撮影ができなかった。今年も去年の二の舞になりやしないかと不安を覚えた。双六岳の山頂から、 槍・穂高の撮影が目的の1つであったので、ここで連泊することにした。午後になり雨が止んだが、 風が強く撮影どころではなかった。散歩がてらに双六カールまで足を延ばしてみた。風は西風だっ たので、カールは風下となりのんびり散策ができた。お花畑は既に盛りを過ぎて、花の姿は少なく 緑一面の斜面が広がっていた。今年は去年以上に暑い夏となったためか、カールの雪は殆ど解けて なくなっていた。帰りがけ、急な登りの中ほどで2人連れの初老の男性に追いつき、山小屋まで同 行することになった。話をしているうちに2人は62才と68才の兄弟で、兄弟夫婦で登山を楽し んでいることが分かった。奥さん達の方が元気が良いので、小屋の受付をするため先に行っている とのことだった。今日で山に入って4日になるとのことで、1人は随分バテている様子であった。 しかも、バテているのは弟の方で、6才も年上の兄が「おい、もっとこまた歩けよ」などと励まし ている。「兄弟っていいなあ」とつくづく思った。話から察するところ、彼等はあちこちの山に登 っているらしく、こんな年まで兄弟夫婦で山を登り続けることができて、羨ましい限りである。 小屋に戻り、談話室に置いてある山岳写真集などをめくりその日を終えた。天気が悪かったため か、昨夜より人が少なくなっていた。 7月30日(金)晴れのち曇り 3時に起床し、3時40分に小屋を出た。外に出てみると雲一つない星空が広がっていた。ヘッ ドライトが必要だったのはほんの30分位であったろうか。双六岳山頂の少し手前で三脚を構えた。 日の出は4時40分頃であった。快晴であったが、残念なことに日の出直前になり東の空に薄い雲 がかかってしまった。弱々しい朝日が差し込むだけで、山々が赤く染まることはなかった。1年に 1度位の来訪では、そう簡単に好条件に恵まれることはないのであろう。 山頂周辺をあちこち撮影して歩いた。7時少し過ぎにはガスが湧いてきて、双六岳山頂でブロッ ケンを見ることができた。双六小屋主人、小池さんの写真集にあったハイマツの白骨帯をやっと突 き止めたが、既に辺りはガス被われ思うような撮影ができなかった。6時30分、双六山頂を後に し、丸山山頂に7時50分に着いた。山頂はすっかりガスに包まれ何も見ることができなかった。 9時30分、双六岳に戻るとガスが切れ始めたが天気の回復の兆しは未だなかった。いそぎ双六小 屋に下った。早めの昼食を済ませ10時50分双六小屋を後にする。北鎌尾根を従えた槍ヶ岳の絶 好の撮影ポイント、樅沢岳に11時30分に着く。ガスは一向に切れる様子もなく、撮影を断念し た。いよいよここからが西鎌尾根のハイライトとなるのだが周囲は何も見えない。霧の中にぼんや りと広がるお花畑の中を何カ所か通り過ぎた。例年なら豊富に残る北斜面の雪渓も僅かしか確認で きなかった。双六小屋を遅く出発したためか、出会った人は僅かであった。槍ヶ岳山荘には4時に 着いた。 いつの間にかガスが少しずつつ切れて、槍の山頂が時折姿をのぞかせるようになっていた。受付 を済ませ部屋に案内されたが、空いていた。夕食は5時からだったので、早々に夕食を済ませ、夕 景を期待して槍の山頂に登った。山頂には、この時間になってもまだ10人ぐらいの人がいた。さ すがに人気のある山である。そのうち山頂から次々と下山し、私と、もう1人の2人だけとなった。 2人で「こんな時間に北鎌など登ってくるやつなどいないでしょうね」と話し合っていると、北鎌 の方向から話し声が聞こえてきた。そのうちガスが切れると3人のパーティが北鎌を登ってくるの が目の前に見えた。こんな時間に冒険登山をしている彼等の姿を見ると急に興奮して「がんばれよ、 もう少しだぞ」と大声を出してしまった。3人が山頂にたどり着いたとき、思いっきり拍手をして やった。彼等は私のそばに来て「応援ありがとうございました」と言って、登攀用具を片付け腰を 下ろした。彼等は女性2名と男性1名のパーティだつた。貧乏沢を下り10時間を要したとのこと であった。一般登山道を歩いていると、こうした登山者に会うことは少ないが、このような若者を 見ると自分までもが元気が出てくるような気分になった。日没まで1人粘ったがガスが晴れること はなかった。 7月31日(土)快晴 天気予報通り快晴となった。3時半に起床し、日の出前に槍の山頂に登った。山頂には既に数人 の人がいた。槍ヶ岳山頂から御来光を拝むためであ。しばらくすると次々と人が登ってきて、日の 出前に狭い山頂は一杯になってしまった。久々の槍ヶ岳だったのでびっくりしてしまった。こんな 時間に山頂に登るのはカメラマンくらいかと思っていたが大違いであった。 透き通った空の下での日の出は実に見事であった。真夏に、こんなに空気が澄んだ日に夜明けを 迎えたのは始めてである。東の空は、山並みの境まで薄雲一つない。いよいよ夜明けのドラマの始 まりである。東の空がオレンジ色に輝き始めると、西の空はバイオレット色に染まる。真夏の強い 光がこぼれ始めると、穂高の山並みの岩肌が赤銅色に染まっていく。山ひだに残された雪渓はピン ク色からオレンジ色に移っていく。息を付く間もなく震える手でシャッターを切る。山岳写真のク ライマックスの瞬間である。しかし、人間の興味とは面白いものである。この場で、穂高の山並み にレンズを向けてシャッターを切っているのは私1人だけだった。私以外の人はみんな、御来光を 見つめていたのである。 小屋に戻り、昨夜作ってもらった弁当で朝食とした。幸運にも、若い2人連れの女性と山の話し をしながら食事ができた。男は幾つになっても単純なもので、若い女性が傍にいるだけで、冷たく なった弁当でも楽しい一時を過ごすことができたのだ。7時30分、槍ヶ岳山荘を後にする。空気 の澄んだ青空に真夏の太陽がギラギラと輝きはじめた。しかし、頬に当たる風はさらりとしてすが すがしい。展望を欲しいままにした東鎌尾根を下り、ヒュッテ大槍を過ぎ水俣乗越への急な下りに さしかかると、次々と中高年を主体とした登山者の集団が、きつい登りに耐えながら槍ヶ岳を目指 して登ってきた。時間的に見て、昨夜ヒュッテ西岳に泊まった人達であろう。水俣乗越には9時4 0分に着いた。既に出会う人もまれになり、風に揺れるダケカンバの葉のざわめが耳に入るように なった。 一休みして更に足を進め、10時55分、西岳ヒュッテに着いた。大勢の人が昼食休憩をしてい た。太陽は真上に昇り強い日差しが照りつけ、直接日の当たっているところでは暑くて休むことが できなかった。標高2,700mもあるのに、こんなに暑くなるのだろうか。日の当たらない山小 屋の庇の下で昼食とした。11時20分、西岳ヒュッテを後にした。空には雲の湧いてくる様子は どこにもない。しばらく東斜面のお花畑の中を行くと、間もなく稜線出る。左手後方には槍・穂高 連峰が連なり、右手には大天井岳から蝶ヶ岳の山並みが続いていて、豪華この上ない展望が続く。 しばらく行くと再び東斜面をトラバースする形でダケカンバの樹林帯に入る。樹林帯に入ると暑い 日差しも遮られ幾分楽になった。樹林帯の合間に点在するお花畑を過ぎると大天井岳ヒュッテに着 いた。2人ほど休憩しているだけで、ひっそりとしていた。 既に1時半になっていた。槍ヶ岳山荘を出て6時間が経過していた。ここから大天井岳の山頂ま で70才になる登山者と同行することになった。私は何故か元気な老人に出会うと気が晴れ晴れし てしまう。「この年まで元気なら、俺もまだまだ山に登れるぞ」と思うと、未来がやけに開けてく るのだ。元気な老人とすっかり意気投合し、ここで泊まる予定をしていた彼はすっかり元気付き、 大天井岳まで同行することになったのである。山頂近くになると、ごろごろした石の間にコマクサ が点在していた。山頂には3時10分に着いた。ここからの槍ヶ岳は実に大きい。空には雲一つな かった。山頂から大天井小屋に戻り同行者と別れた。別れ際、彼は「君のおかげで随分元気でたよ。 ありがとう」と云った。礼を言われる程のことなど何もしていなかったが、何故かすがすがしい気 分になった。3時半、大天井岳小屋を後にした。疲れが次第にたまり「天狗の大下り」の登りは、 2台のカメラ機材の重みがたたってか、ひたすら我慢を続けなければならなかった。蛙岩に近づい たとき、大きな荷を背負った単独の若い女性に追いついた。追いつく迄は男とおもっていたが、あ どけない顔をした女性であつた。荷の重さを聞いたところ、30s近くあるとのことであった。私 の荷はせいぜい17sしかなかつた。しかも、出発は私と同じ槍の肩からだと云う。その話を聞い て、身体から疲れが叩き出されたような思いになった。我に返ったかのように、まともなペースに もどった。 6時、燕山荘にやっと着いた。槍ヶ岳山荘を出て10時間30分の時間が経過していた。受付を 済ませ、山荘裏に行った。槍ヶ岳の夕景を撮影するためである。西の空にはうっすらとした雲がか かっていた。日没まで待ったが、期待した夕景にならなかった。燕山荘に戻ると多くの人で賑わっ ていた。しかし、部屋がすし詰めとなるようなことはなかった。 8月1日(日)快晴 撮影目的の山行は時期を問わず早起きである。今朝もまた3時半の起床とした。朝食前に燕岳山 頂周辺で朝焼けに染まる奇岩の撮影のため出かけることにした。外に出てみると、昨日につづいて 今日も星空が広がっていた。山頂より少し下の形の良い奇岩を選び、奇岩をテーマに遠くに見える 富士山を背景に三脚を構えた。今日は昨日より更に空気が澄んでいた。ここは山頂でないためか誰 もいない。昨日の槍ヶ岳の混雑が嘘のようだ。一人、撮影に思い入れることができると思うと胸が 弾んだ。槍ヶ岳の上空が、夜の空からバイオレット色に染まっていく。東の空は黄金色に輝き出し 、小さな富士がシェルエットなり南アルプス連峰の左隣に浮かび上がる。朝日がこぼれ始めると奇 岩の岩肌が赤黒く色づきはじめる。太陽が山並みから姿を現したばかりは、まだ肉眼でまぶしく見 ることが出きた。まるで黄金の光玉となり宇宙創生のドラマが展開されているようだ。奇岩は赤銅 色に輝き別世界に迷い込んだような思いに捕らわれた。古代の人達は、このような出逢いの中で原 始宗教を会得していったのかも知れない。夢中でシャッターを切った。山岳写真を続けていて、作 品の出来映えとは関係なしに本能的に感動できる瞬間である。一人満足し小屋に戻り朝食とした。 登山客は殆ど小屋を去り静かになっていた。燕山荘はしゃれた山小屋で都会にあるような食堂があ る。ワインを注文して外のベンチで遠くの山並みを眺めながらくつろいだ。 9時55分、燕山荘を後し、中房温泉に12時15分に着いた。温泉で5日間の汗を流した。 今回は5日間山に入っていたが、2日間好条件に恵まれ、久々の満足のいく撮影山行となった。 [反省] 1.中房温泉からはタイミング良くタクシーの相乗りをさせてもらったが、事前に交通の便をも っと良く調べて置くべきであった。登山者が少ない場合、タクシーの相乗りに手間取ること思 われる。 2.双六岳からの槍・穂高の撮影は広角レンズを主に使ったが、望遠系のレンズも使用すべきで あった。 [コースタイム] 7月28日 新穂高温泉(6:30) → ワサビ平小屋(7:45) → 双六登山口(8105) → 秩父沢(9:00) → イタド リヶ原(9:45)→ 鏡平小屋(11:10) → 笠ヶ岳分岐(12:30) → 双六小屋(1:55) 7月29日 風雨のため双六小屋に停滞(午後、雨が上がったので双六岳のカールを往復) 7月30日 双六小屋(3:40) → 双六岳(4:40〜6:30) → 丸山(7:50) → 双六岳(9:30) → 双六小屋 (10:20〜10:50) → 樅沢岳(11:30) → 槍ヶ岳山荘(4:00) 夕食後撮影のため、槍ヶ岳山頂往復 (登り16分、下り13分) 7月31日 3時30分起床、朝食前に撮影のため槍ヶ岳山頂往復 槍ヶ岳山荘(7:30) → ヒュッテ大槍(8:10) → 水俣乗越(9:40) → ヒュッテ西岳(10:55〜11:20) → 貧乏沢入口(1:05) → 大天井岳ヒュッテ(1:30) → 大天井岳小屋(2:50) → 大天井岳(3:10) → 大天井小屋(3:30) → 燕山荘(6:00) 8月1日 3時30分起床、朝食前に燕岳、北燕岳周辺を撮影 燕山荘(9:55) → 合戦小屋(10:40) → 中房温泉(12:15)
山行報告:大日岳(飯豊) 期 日 :’99年7月17〜19日 行 先 :大日岳(飯豊) メンバー:浅川浩三(単独) 花の撮影を目的に大日岳に行きましたが、雨で写真を一枚も撮ることができませんてした。 残念ですが、写真館には1枚の写真も載せることができません。 7月17日(土)曇り時々晴れ ある友人に私と岩魚釣りに、20年位前に実川に入ったことがあると云われたが、どうしても思 い出せない。思い出せないことが、かえって今回の山行を新鮮なものにしてくれた。 実川は、距離的には自宅から180qそこそこで決して遠い場所ではないが、5時間もかかって しまった。実川の部落を過ぎ、林道をしばらく行くとゲートがあり、ここが車の終点となる。ゲー ト手前には車が数台駐車できる小さなスペースがある。岩魚釣りに来たのか、車が2台あった。す でに11時20分になっていたので昼食をしてから出発することにした。昼食をしていると、東北 電力の保守作業員と思われる人が車から顔を出して、川に入るなら十分注意するようにと忠告して くれた。昨日、尾根1つ向こうの沢で釣り人が岩から落ちて死んだということだ。その車が通り過 ぎると間もなく、1台のタクシーが入ってきて、1人の登山客を下ろした。彼に話しかけてみると、 今日と明日の行動予定が私と同じとのことであった。彼はタクシーから下りて身支度を整えると直 ぐに出発した。 昼食を済ませゲートを出発したのはちょうど12時だった。天気予報では曇りとのことであった が、時折暑い太陽が顔を出していた。重い荷を担いでの単調な林道歩きは好んでするものではない が他に方法がなかった。1時間ほど進むと無人の小さな発電所があった。実川発電所と書いてあっ た。小休止をして更に林道を進んだ。しばらく行くとトンネルに出た。ガイドブックに書いてあっ た通り、トンネルの中はカーブしているため、外から明かりが奥まで届かず真っ暗だった。車道の 中央に作られた排水溝に、トンネル内から湧き出した冷たい地下水がいきよいよく流れていた。冷 たい湧き水に外から流れ込んでくる暖かい空気が触れあって、トンネル内は濃い霧が立ちこめてい た。ヘッドライトの明かりが光柱となって走り、足音が闇の世界へ吸い込まれて行くようで、何と も不気味な思いがした。しかし、外とは違って、ひんやりと気温が低く重い荷を背負っての歩きに は快適であった。急ぎ足で、13分を要した。トンネルは1q弱の長さであろう。 トンネルを出て小休止をした。しばらく行くと、ゲートでタクシーから下りた登山者に追いつい た。ここから彼と同行することになった。彼の名は宮川さんと言って、郡山市から来たということ で、大日岳、飯豊本山を経由してダイクラ尾根を下る予定とのことだった。彼と山の話をしながら 歩いたためか、思いの外早く湯の島小屋に着いた。2時半だった。 林道から湯の島小屋への入り口には何の標識もなかったので、入り口を2人とも見落とし林道の 終点まで行ってしまった。100mほど戻り、小屋を探し当てた。山小屋は昨年作られたとガイド ブックにあったが、真新しい2階建ての立派な山小屋が、雰囲気のよいブナの原生林の中にあった。 山小屋の直ぐ後ろには沢水が流れており、申し分のない条件が揃っていた。まだ時間も早かったの で晩酌のつまみにと、岩魚釣りに出かけることにした。実川は廊下状になっていて、川に下りるの が面倒であったが、なんとか川に下りることができた。川の水量は岩魚釣りに最適と思われたが、 辛うじて小さな岩魚を2匹釣ることができた。早速小屋に戻りバター焼きとして晩酌のつまみとし た。山が好きな者同士というものは面白いもので、何の面識もなかった宮川さんと旧知の仲の様な 晩酌ができた。明日は早出をしたかったので、8時半には寝袋にもぐり込んだ。 7月18日(日)曇りのち小雨 昨日は、荷は重かったが林道歩きだけだったので、今朝の体調はまずまずであった。外に出て見 ると辺りは雨で少し濡れていたが、雨は上がっていた。今日の登りは、飯豊の登山ルートの中でも きついコースの1つと云われているので、しっかりと朝食を取った。出発はなるべく早くしたかっ が、4時少し過ぎに起床し、湯の島小屋を出発できたのは6時近くになってしまった。 カメラ機材のため荷が22sを越えてしまったが、覚悟していたためか、出発早々はそれほどき つく感じなかった。小屋から10分も行くと「下のあし沢」にでた。当然、沢には橋が掛かってい ると思っていたが、橋は掛かっていなかった。沢は廊下状になっていて、登山道は、いきなり5m ほど鉄梯子を下り沢を渡るようになっている。沢に下りてみると、上流はずっと廊下状となり、下 流は何段かの滝となって実川本流に注いでいる。靴を脱いでの徒渉かと覚悟を決めて辺りを見回す と、今下りてきた鉄梯子の横にアルミ製の渡し板がロープに繋がれ立て掛けてあった。これを使っ て沢を渡るのかと思いほっとした。考えてみれば、この地域は日本でも有数の豪雪地帯である。こ んなところに登山用の橋など架けても、春の雪崩や集中豪雨でひとたまりもないのであろう。渡し 板を沢に渡してみると、しっかりとした橋ができ簡単に沢を渡ることができた。下山も同じルート を予定していたので、アルミの板橋が沢が増水しても流されぬ様に、端に付けられていたロープを 川岸の木にしっかりと結び付けた。 登山道は川岸からいきなり急登となったが、直ぐ緩やかなブナ林となった。2人の釣り人が我々 を追い越し、実川本流に下っていった。美しいブナの原生林も間もなく終わり、いよいよ「オンベ 松尾根」をたどることになった。松尾根の名の示す通り、ヒメコマツの大木がしばらく尾根筋に点 在していた。時折雨が降っては止む、梅雨特有の空模様となってきた。ルートは痩せ尾根を忠実に たどっている。出発して、2時間ほどで最初の目標地点である月心清水についた。テントが2〜3 張り設営できる広場が作られていた。ここから70mほど右に行くと冷たい沢水がいきよいよく流 れていた。緑したたる林床にはセンジュガンピの白い花が点々と咲いていた。 小休止後、いよいよ飯豊の本格的な登りとなった。雨は小降りであったが、止んでいる間が短く なり、ついに合羽を着ることにした。チャックを外して歩いたが、重い荷のため合羽の内側の蒸れ はどうすることもできなかった。しばらくは尾根は広く、尾根筋を歩いている感じはしなかった。 いつしか大木の樹林は消え、ミズラを中心とした豪雪地帯特有の小灌木帯になっていた。登山者が 非常に少ないルートにしては、登山道ははっきりとしていた。更に足を進めると急坂と緩やかな登 りが交互に現れるようになり、荒砂が固まったようなボロボロの岩場が多くなった。急坂には長い ロープが随所に張られていた。登りにはこれらのロープをそれ程必要に感じなかったが、下りには ありがたかった。 ひたすら重い荷に耐えて登り詰めていくと、何時しか登山道は痩せ尾根をたどっていた。振り返 ってみると今登ってきた尾根筋が谷底へと延々と続いているのが見えた。既に樹林は背丈より低く なり、小雨が降っていても結構見通しはあった。あといくつのピークを越えれば牛ヶ首の尾根筋に 出ることができるのだろうとか思い、気を引き締めて更に登り続けた。小休止の間隔が次第に短く なってきた。ふと、行く手を見るとヒメサユリが時を得たように群落となって咲いていた。小雨に 濡れた花たちの面影が疲れた体にやさしい励ましとなった。 ペースは落ちてきたが、次第に牛ヶ首への稜線が間近に見えてきた。残雪もところどころ現れ始 め、雪田の縁にはピンクのショウジョウバカマが可憐に花開いていた。稜線への斜面はまだ花開か ぬがモミジカラマツの緑の絨毯が広がっていた。その中にところどころシラネアオイが咲いている のが確認できた。最後の急登を登り切り稜線に11時20分に着いた。ここは、昭文社の地図に 「早川のつきあげ」と記載されている。既に標高は1,800mを越え、風が冷たくなってきた。 風の当たらぬ岩陰で昼食にした。きつい登りは終わったと思われたが、まだ行程の中程で気をゆる める訳にはいかなかった。昼食のあと更に気を引き締めて出発した。 登山道は稜線まで来るとあまり整備されていなかった。次第にヤブがうるさくなり、雨が降って いることとも相まって靴の中に水がしみ込んできた。しばらく行くと「牛ヶ首」とやっと読みとる ことができる古い標識があった。「牛ヶ首」が示す通りゆるいアップダウンがある尾根筋となって いた。尾根筋は背丈の低い低灌木で覆われているので天気さえ良ければ展望にこと欠かないところ であろう。しかし登山道は小灌木の枝や根っこが多く歩きにくくなった。荷が重く、私には早く歩 くことができなかったので、何度も宮川さんに先に行ってくれるように云ったが、彼は御西小屋ま で同行してくれた。天気がぱっとしなくて、気分も晴れないこんな日に同行者がいたおかげで精神 的に随分楽な気持ちになれた。 更に歩きにくい登山道を進んでいくと牛ヶ首最後のピークについた。ガスの合間に時折大日岳の 姿が大きく浮かび上がった。ここから見る大日岳は迫力があった。しかし小雨降るこんな条件の悪 い状態ではカメラをザックから出す気になれなかった。このピークから、少し下るといよいよ大日 岳の登りとなる。この辺りから登山道は更に未整備な状態となっていた。ササや小灌木の刈り払い を、もう何年もやっていない状態であった。最低鞍部辺りから小灌木も少なくなり、胸ぐらいまで のササが登山道に覆い被さっていた。下道はっきりしていたが、うっかりすると登山道を外しかね ないほどであった。登山道は最低鞍部から東斜面をトラバースしながら山頂へと向かっていた。御 西小屋に着いてから山小屋の管理人に聞いた話であるが、例年ならこの辺りはこの時期まで雪が多 く残りアイゼンもピッケルもないと随分苦労させられる場所とのことであった。幸い、このところ 暖冬続きで雪が完全に消えていて雪の苦労は全くなかった。ただ重い荷と急登に耐えるだけであっ た。 しばらく行くとトラバースは終わり、直登になり、ヤブは少なくなった。ひたすら登り続けてい くと、雪渓の残るなだらかな場所に出た。大日岳山頂直下の水場である。雪渓の周りは草地になっ ていて、霧の中にぼんやりとハクサンイチゲの白い花が散らばっていた。ここで小休止とした。体 はほてっていたが風は更に冷たくなっていた。雪渓の末端から流れ出る水を水筒に補給してその場 を後にした。いよいよ最後の登りとなった。こんなところまで来ても、登山道のところどころに小 さな山蛭がうごめいていた。山頂近くまで行くと、登山道のど真ん中に大きな熊の糞と思われる落 とし物があった。少し不安になったが、熊の気配はどこにもなかった。しばらく行くと次第になだ らかな登りとなり、遂に山頂の標識が目に入った。2時20分、遂に大日岳の山頂に着いた。山頂 には何人かの登山者が休んでいた。既に湯の島小屋を出て8時間25分が経過していた。この間、 大日岳の登りにさしかかったとき、2人の登山者が我々を追い越していっただけで、他に誰にも会 うことはなかった。このコースは飯豊山の中でも、きついコースの1つとのことで入山者が少ない のかも知れない。 いつの間にか雨は上がっていたが、空の雲が切れることはなかった。しかし、見通しが良く飯豊 の山並みが手に取るように見えた。西大日岳への稜線は緑の絨毯を敷き詰めたかのような草原がつ づいていた。天気が良かったら西大日岳を往復する予定であったが、とてもその気になれなかった。 前線通過のためか、冷たく強い風が吹き付けていた。寒くて長居もできず早々に山頂を立ち去らね ばならなかった。御西小屋は大日岳から確認できたが随分遠くに見えた。大日岳からの下り斜面に は思いのほか花が少なく、ニッコウキスゲとハクサンイチゲがちらほら目に入るだけであった。鞍 部に下りると登山道は人通りが多いのか、ひどいぬかるみとなっていた。おまけに登山道の両脇の ササが覆い被さり一層歩きにくくなった。鞍部からは緩やかな登りであったが、疲れてきたのかペ ースがすっかり落ちてしまった。雨が上がったと思うのも束の間、御西小屋に着く頃には再び霧が 立ちこめ小雨混じりとなってきた。4時ちょうど御西小屋に着いた。湯の島小屋を朝5時55分に 出て、何と10時間あまりの行程となった。 御西小屋に着いてみると、ほっとする間もなく小屋の異常な混雑に遭遇することとなった。今年 の海の日は飛び石連休の1日を埋めると4連休となる。ある程度の混雑は予想していたが、あまり の混雑に度肝を抜かれてしまった。海の日には、去年の北岳肩の小屋の異常な混雑の二の舞となら ぬよう計画したつもりであったが、今年も同じ羽目となってしまった。山小屋の管理人の話だと、 飯豊本山小屋が昨年暮れの強風で屋根が吹き飛ばされたままで、いまだ修理が済んでなく、使用禁 止となっているため、ここ御西小屋に宿泊者が集中してしまうとのことであった。いくら混雑して も、テントを持ってきていないので山小屋に泊まるしかない。早速受け付けを済ませ小屋に入ろう とすると、管理人が荷物は小屋の中に持ち込まないようにと云った。ザックを持ち込んだのでは人 が入りきれなくなると云うのだ。外は濃い霧となり小雨が降っていた。既に小屋の狭い庇の下にザ ックカバー等で雨よけをかぶせ、ザックが所狭しと置いてあった。私もカメラ機材を濡らしては困 るので、カメラ機材を防水袋に入れ、それをザックに入れ、更にザックをザックカバーで被い、で きる限り雨の吹き込まないと思われる庇の下に置いた。 小屋に入り、2階の指定された場所に自分の居場所を確保した。ほっとして、一休みしていると 次々と人が入ってきた。このままではじき食事を作る場所も確保できなくなると思い、少々早いと 思われたが夕食を作った。重い思いをして持ってきた日本酒を飲み今日1日の疲れを癒したかった が、そんな状況ではなかった。早々に夕食を済ませ横になった。そうしている間にもどんどん小屋 の中に人が入ってきた。管理人は人の居場所を割り当てるのに喧嘩腰で対応していた。結局、この 晩は横になって眠ることはできなかった。柱に寄りかかりながら膝を抱えて仮眠するしかなかった。 それでも疲れていたのか、うとうとと仮眠ができ、夜の長さをそれ程に感ずることもなく、夜明け を迎えることができた。 7月19日(月)小雨のち曇り 一晩過ぎても天気は回復しなかった。天気が回復するのなら、せっかく重い荷に耐えてここまで きたのだから、昨夜の混雑をもう1晩我慢するつもりでいた。しかし、天気予報を聞くとここ2〜 3日、昨日と同じ様な天気が続くとのことであった。関東地方では既に梅雨が明けていたが、ここ 東北の山岳地帯では梅雨は明けていない様子であった。また、梅雨末期の集中豪雨でも来れば、あ のアルミ板を渡した「下のあし沢」は増水して、徒渉に困難を極める。そんなことを思うと、これ だけ労力を費やしても、写真1枚も撮れないことは、何とも残念に思えたが、今日下山することに した。 山はみんな早出である。5時には殆どの人が小屋を出た。殆どの人が出発してから朝食とした。 飲まなかった酒と余った野菜を管理人にあげたら喜んでくれ、おまけに荷を軽くすることができ助 かった。小屋の混雑のため、宮川さんとは挨拶もできず別れることとなったが、後日、彼から丁寧 な手紙が届いた。 6時45分、御西小屋を後にした。小雨はしばらく止むことはなかった。昨日登ってきた登山道 を忠実に辿った。昨夜横になって熟睡できなかったので、今日は我慢の1日を覚悟していたが、明 けてみると体の疲れはとれていた。大日岳、牛ヶ首、早川のつきあげ、月心清水と快調に下り湯の 島小屋に12時50分に着いた。荷物はそれ程軽くならなかったのに、登りに10時間もかかった ところを6時間そこそこで下ることができた。湯の島小屋でゆっくりと昼食をとった。1時50分、 小屋を出発しゲートに4時に着いた。 花の飯豊の撮影に来て、1枚も写真がとれなかったことは残念なことであったが、それでも今回 の山行は充実した山行となった。この年になっても、まだまだ山に登れるという感触を掴むことが できた。そして深い飯豊の森の中に、どっぷりと浸かった3日間は私の求め続けていた山行そのも のであった。 [反省] 1.荷重量が22sとなり、体力の限界を少々オーバーしていた。このクラスのルートを選択 するときは18s位を目標に工夫したい。 2.小屋の事情を事前に調査しておくべきであつた。夏までに改修されているだろうとの思い 込みがあった。 [コースタイム] 7月17日 自宅(野崎)(6:35) → 実川林道ゲート・車終点(11:20〜12:00) → 実川発電所(12:55) → トンネル(1:33〜1:46) → 湯の島小屋(2:30) 7月18日 湯の島小屋(5:55) → 月心清水(8:05) → 稜線(11:20) → 大日岳(2:20) → 御西小屋(4:00) 7月19日 御西小屋(6:45) → 大日岳(8:15) → 牛首(9:35) → 稜線下降点(10:00) → 月心清水(11:30) →湯の島小屋(12:50〜1:50) → 実川発電所(3:05) → ゲート(4:05)
【平成12年1月11日受付分 報告:浅川】
山行報告:那須・大倉山 期 日 :1999年 3月20〜22日 行 先 :那須・大倉山 目 的 :大沢と井戸沢間の尾根踏査 メンバー:浅川浩三他2名 三斗小屋宿から三倉大倉山に挑戦しましたが敗退しました。 帰りの峰の茶屋越えは、かって経験したことのない強風との闘いとなりました。 3月20日(土)曇りのち小雪 今週の前半は暖かい日が続いたが、週末になって真冬の寒さが戻った。このため雪が良く締まり いい登山条件となっていた。しかし、天気予報によると低気圧の通過で、この3連休は荒れ模様と なるとのことだった。 今日は三斗小屋泊まりの予定なのでのんびりと出発することにした。途中、西那須野の友人一人 を拾い大丸に着いた。しばらくするともう一人の友人も到着した。身支度を整え、大丸の駐車場を 9時に出発した。車道は峠の茶屋駐車場まで既に除雪されていたが、雪解け水が路面に流れ出し氷 結していたため、歩き始めてすぐアイゼンを着けるはめとなった。風が思いの外強かったので明礬 沢沿いの林道を詰めることにした。先週に較べ雪は随分解けて少なくなっていた。しかも土埃が雪 面を覆い、美しい雪の面影はどこにも見つけることができなかった。だが、気温が低かったためか 雪は堅く氷結しアイゼンが効いて快適そのものだった。 明礬沢から雪の着いた剣が峰の東斜面を直登し、登山道近くに出た。雪は少なくなったとはいえ、 登山道はまだ雪の下だった。峰の茶屋は心配していた程の風もなく、あっけなく峠越えができた。 大丸から2時間程の行程となった。昼食には少し早い時間だったので、休憩なしで峰の茶屋下の避 難小屋に下りた。この避難小屋の荒れ模様は何時見ても胸が痛むが、先日の新聞によると林務事務 所により改修されるとのことでほっとした。 あまり快適と云えないが、ここで昼食とした。気温が−5℃まで下がっていたので熱燗が喉にし みた。1時間の休憩をとり三斗小屋に向かった。ここからは登山道が現れている部分もなく雪が土 埃で汚れることもなく、まだまだ冬山の状態であった。アイゼンを外すことなく1時20分に三斗 小屋に着いた。雪の条件が良かったのか、無雪期と変わらぬペースで歩くことができた。 宿は大黒屋に予約しておいた。部屋に案内され50分程休憩して、明日に備えて雪の状態を確認 するため三斗小屋宿に行くことにした。三斗小屋から先は踏み跡が全くなかった。大峠方面の登山 道は雪に完全に埋もれ明日のルートファインディングが楽しみに見えた。三斗小屋宿へのルートは うっすらと登山道が確認できた。友人2人は大峠への登山道が全く確認できないことに不安を覚え ている様子であった。三斗小屋付近は雪が締まっていたのでカンジキを着けずに出発した。しかし、 下るにつれ、雪はゆるみラッセルがきつくなり、一汗かいてしまった。50分程で三斗小屋宿に着 いた。宿一帯はまだ30p程の積雪があった。暖かい日が続いたので車道にはもう雪はないと思っ ていたが、意外であった。 雪の状態を確認するため、大沢と井戸沢の間の尾根の取り付きまで足を運んでみた。ササは少し 現れているがヤブこぎの心配はないように見えた。明日は悪天にならなければ予定通り行動ができ るだろう。 1時間ほどして、三斗小屋に戻ることにした。ラッセルにはもうこりごりだったので迷うことな くカンジキを着けた。歩き始めて間もなく小雪がちらついてきた。 大黒屋には5時40分に着いた。既に薄暗くなっていた。 部屋に戻り、まずは温泉につかり汗を流し夕食とした。熱燗が格別な味わいとなって喉にしみた。 明日のルートのことを思うと3人とも何時になく話がはずんだ。単独で入山することの多い私にと って、親しい友人と山の話しを肴に飲む酒に久々の温もりわ感ずることができた。 9時の消灯に合わせふとんにもぐり込んだ。 3月21日(日)晴れのち雪 今日は条件さえ良かったら大沢と井戸沢の間の尾根をつめ、三倉・大倉山を往復し、大峠をまわ って三斗小屋に戻る予定とした。 5時出発を目標に3時半に起床したが、出発は5時10分になっていまった。外に出てみると予 想もしていないことに雲一つない空が広がっていた。夜明けが随分早くなりこの時間になるとヘッ ドライトの必要はなかった。カンジキを着けてゆっくり歩いたつもりだったが、三斗小屋宿に6時 少し過ぎに着いた。驚いたことに2人の釣り人が下から上がってきた。今日は渓流釣の解禁日との ことであった。今年は雪が少なくここまで1時間ほどの所まで車を乗り入れることができたとのこ とだった。思えば、若いとき岩魚釣りに夢中になっていたとき自分も彼等と同じ様なことをしてい たことを思い出した。ここでこれからの登りに備えて朝食とした。冷えないようにとおにぎりにホ ッカイロを当てタオルで包んで置いたので、美味しい朝食をとることができた。 いよいよ本命の登山に先立ち、急登と深い雪が予想されるのでカンジキとアイゼンを着け、6時 半に三斗小屋宿をあとにした。昨日、下見をしておいた神社脇を通り尾根に取り付いた。2万5千 分の1の地図に示されている大沢と井戸沢の間に延びる尾根を忠実にたどることにした。 一気に尾根筋にでるため、尾根の北東面を詰めた。尾根筋に近づくに従い、下から見るよりササが 多く出ていて雪田を拾いながらのヤブ漕ぎとなった。ヤブ漕ぎをしながらの前進では時間がとられ て敗退になるのではと不安が過ぎった。ササはチシマザサと思われかなり太いものが見られ、親指 の倍近いものも見られた。季節に来れば美味しい地竹がいくらでもとれることだろう。 しばらく登りつづけると雪が多くなったのかヤブは少なくなりほっとした。雪は堅く締まり足が もぐることもなく快適に前進することができた。尾根筋をしばらく行くと目的の主尾根に取り付く 急斜面に出た。この急斜面を登り切ったところが大沢と井戸沢の間にある主尾根のはずである。今 まで登ってきた尾根は枝尾根である。主尾根への斜面はかなりの急斜面だったのでカンジキを外し アイゼンだけにした。樹林帯ではあるが、積雪が多いときには雪崩の危険が高いのではないかと思 われるところだ。地図で示された密な等高線通りであった。しかし、今年は雪が少なく既に残雪期 の様な状態だったので雪崩の心配はなかった。急斜面に点在するササヤブを避けながら何とか主尾 根にでることができた。昨日、友人が状況も知らずにピッケルなど不要でストックで十分だろうと 云ったことを思い出し、思わず苦笑してしまった。 尾根筋はミズナラとブナの混合林となっていた。ここまで登ればササは完全に雪に覆われ、気持 ちの良い原生林となっていた。尾根筋は地図で示されているよりずっと痩せ尾根だった。西斜面は 強風のためか雪はあまり付いていなく、岩が露出している部分も多く見られた。しかし、その反面 東斜面は雪がたっぷりと付いていた。しばらく行くと、昨日三斗小屋宿に下る途中見えた雪庇帯に 出た。最近の暖かさで随分小さくなってしまった様だが、間近で見る雪庇はそれでも迫力があった。 更に登り続けると、いつの間にかミズナラは姿を消しブナ帯となっていた。雪の状態は良くアイ ゼンが快適に効いた。いつしか痩せ尾根はは終わり丸くただっ広い雪面に変わっていた。南の空を 見るとつい先ほどまで雲一つなかった空にガスが一杯湧き上がり、沼ッ原は既に見えなくなっていた。 今、自分たちがいる場所がガスに覆われるのも時間の問題と思われた。しかし、この時点で大峠行 きを断念する羽目になるとは考えられなかった。 ブナ林を抜けるとまばらなダケカンバ林となった。井戸沢へ落ちる雪の急斜面にはうっすらと霧 氷の付いたダケカンバがガスのなかにぼんやりと見えた。いつもの見慣れている那須山とはまるで 違った高山の森林限界を思わせる景観が広がっていた。那須でもこんな山岳風景があるのかとうれ しくなった。 尾根は次第に広くなり森林限界となった。風雪に耐えやっと生き残ったような背の低い曲がりく ねったダケカンバのふもとで小休止とした。既に辺りはすっかりガスに包まれ稜線へ延びる広大な 雪面がぼんやりと見えるだけになっていた。日差しはガスで完全に遮られ、気温が急に下がって春 山から一気に厳冬の山になった。小休止のあと稜線に向かった。ところどころ新雪が4〜5p吹き 溜まっているくらいで、雪面は殆どアイスバーン状態となりアイゼンが快適に効く登りとなった。 9時35分、地図上の1,792m地点に着いた。標高差700m、初めてのルートでこの時期に この時間で登り切れるとは思わなかった。気温が上がらず雪の状態が良かったため幸いしたものと 思われる。 しかし、喜びも束の間のものとなってしまった。ここで考えても見なかった敗退となったのであ る。方向を確認するため周囲を歩いてみたが、ガスが濃くなり全く視界がきかなくなっていた。 運の悪いときは悪いことが重なるもので、いつの間にか風雪となっていた。次第に地吹雪がひどく なり、どうしても流石山の方向が確認できなかった。ルートを探すために稜線の北西側に足を踏み 入れると新雪が腿ぐらいまで吹き溜っていて、カンジキを着けていない足には疲労が倍加した。 あちこち歩き廻っている間に風雪がますますひどくなりホアイトアウト状態になってしまった。こ れでは大倉山はおろか流石山へも行くことができないと思い、今登ってきたルートに引き返そうと、 地図とコンパスで位置を確認したが、友人2人と私の方向感覚まるで正反対となっていた。友人が あまり強く言い張るので自分の方向感覚に不安を覚えた。そのうち友人2人は辺りをあちこち歩き 始めた。ふと、これがリンデワンデリングと云うものかと脳裏を過ぎった。このままにしておいて はいけないと思い自分の方向感覚を信じ強引に2人を下山ルートに導いた。 下山を初めて間もなく、友人の1人が今登ってきた自分たちのかすかなアイゼンの爪跡を見つける ことができた。下山ルートを確認できた友人2人はやっと我に戻ったようである。雪山の経験の少 ない彼等はホアイトアウト状態に陥り、すっかり気が動転していたのだろう。万一のため冬用のツ ェルトを私が背負っていたのに、人間とはこんなにも簡単に自分を見失ってしまうものなのかと、 あらためて思い知らされた。しかし、友人を決して弱い人間とは云えない。自分とて、少し自分に 不利な条件が重なったなら同じ様な精神状態に陥ったかも知れない。 この間たったの20分位であったろうか。長い長い時間を過ごしたように思われた。この様な場 所では、教科書通りに赤い布切れを付けた篠竹の目印がどんなに威力を発揮するかが身をもって知 ることができた。 9時55分、下山の途に着いた。100mも下ると、先ほどのことがまるで嘘のように天気が回 復してきた。樹林帯に入ると、風も雪も殆ど止んできたので昼食とすることにした。緊張のほぐれ た後のワインは格別な味わいがあった。昼食をしている間に、いつの間にかガスが晴れてきて大倉 山、流石山の山頂が見えてきた。何ということだ、山は何と気まぐれなのだろう。後ろを振り返っ て見ると那須連山がひときわ大きく佇んでいた。旭岳、三本槍ヶ岳、朝日岳、そして茶臼岳が目の 前に連なっていた。ここから見る那須連山は始めてであった。大倉山に登る途中からの那須連山も すばらしいが、ここからは更にズームアップして迫力がある。まさに私の撮影したい那須山がここ にあった。条件の恵まれた日なら何度きても飽きることがないであろう。 30分の休憩の後一気に山斗小屋宿に下山した。登る時に手こずったササ藪も少しルートを北側 の斜面に取ると、ササは殆ど雪に埋もれ快適に下ることができた。山斗小屋宿には12時に着いた。 思いの外早く下山したのでコーヒーを沸しのんびりと休憩ができた。山斗小屋には2時20分に着 いた。宿に入り急ぎ温泉に浸り早速3人で今日1日の労をねぎらった。今日の山行は敗退だったと 元気なく私がつぶやくと、友人2人は始めてのルートで稜線までまで到達できたのだから、決して 敗退ではないと云った。しかし、私は何とも残念でならなかった。夕食まで少し時間があったので 少々昼寝をすることにした。程良い疲れの後のためか久々に気持ちの良い昼寝ができた。 夕食時、再度酒にしたが疲れが出てきたためかほんの僅かしか呑むことができず、すぐ寝床に入っ てしまった。 3月22日(月)風雪 昨夜は風もなく小雪がちらついているだけであったが、目を覚ましてみると激しい風雪となってい た。後で知ったことだが台風並の強い低気圧が北海道の北部を通過したとのことであった。 ここ三斗小屋は樹林帯の中にありながら時折強い風が吹き抜けると、地吹雪となって雪煙が舞って いた。今日は下山するだけなのでのんびり出発しようということになった。朝風呂に入って外を見 ると、ますます風雪はひどくなってくるようでいやな予感がした。これでは三斗小屋から目出帽子 をかぶっての冬山完全装備が必要だと冗談に話合ったが、これが現実になるとは思ってもみないこ とであった。 朝食を済ませ、3人がのんびりと出発の準備をしていると、宿の人がこれから益々風が強くなる からできるだけ早く下山するようにと云いに来た。私も冬の峰の茶屋越えは常々警戒していたが、 遂に来るものがきたかと少々不安になった。 大黒屋から冬山完全装備とした。外に出てみると厳冬の風雪となっていた。昨夜のうちに30p 位の積雪があったようだ。大黒屋を8時40分に出発した。つい先ほどの先行パーティのトレース は激しい風雪のため完全に消えていた。時折強い風が吹き付けると体がよろけた。樹林帯でこれだ け強い風があるなら、峰の茶屋はどんなにか風が強かろうと気が重くなった。ラッセルはそれ程の こともなかったが、それでも3人でトップを交代で歩いた。延命水を過ぎ、無間谷を渡って避難小 屋にたどり着いたのは10時30分になっていた。一昨日に較べればほぼ倍の時間を要したことに なる。 狭い避難小屋には10人ほどの先行者が休憩していた。誰もがここまでの風雪で、これからの峰 の茶屋越えに緊張している様子であった。2人連れの女性は随分心配して風に飛ばされぬようにと ザイルでお互いを結び合う準備をしていた。人間とは不思議なものである。この様な強い風の場合、 冬山を少しでも経験した者なら、引き返すのが鉄則であることを誰もが知っているはずなのに、誰 1人として引き返そうと言い出さないのだ。今思うと、誰もが雪山の魔力の虜になってしまったか のようだった。 我々も峰の茶屋越えのため、昼食には少し早かったがしっかりと腹ごしらえをすることにした。 我々が休憩を済ませ出発するときには、既に他の人たちは既に避難小屋を全員出ていた。小屋の外 に出てみると風が益々強くなってきたようだった。ダケカンバの梢に当たる風の音がすさまじい唸 り声をあげていた。 避難小屋からダケカンバの樹林帯を抜けるといよいよ風当たりの強い登山道となる。ここから峰 の茶屋を越えて東側の樹林帯に入るまでが強風との闘いの場となる。樹林帯を抜け少しの間は何と か足を踏ん張って身を屈め近くの岩にしがみつきながら前進した。強烈な風が断続的に押し寄せて 来た。少しずつ前進し、先行した何パーティかを追い越した。この時点では、この程度の風なら何 とか峰の茶屋を越すことができるだろうと思っていた。当然、ここから引き返すことなど思いも浮 かばなかった。今になって思えば、樹林帯を抜け出た時点で引き返す判断をすべきであったろう。 風の勢いは更に増すばかりであったが、雪は小降りになり空が明るくなっていた。峰の茶屋まで 50m程の地点に来ると、もう立って歩くことはできなかった。両手を岩にしがみつきながらの前 進である。登山道を忠実にたどった。峠一帯は強風のため雪は殆ど付いていなかった。右前方に2 人の登山者が強風にどうすることもできず地べたに横たわっているのが見えた。あのままでは遭難 してしまうのではないかと思ったがどうすることもできなかった。我々3人は私を先頭にじわじわ と峠に前進した。峠に到達すると腹這いになって、地べたの岩に両手でしがみついていなければ体 を支えていることはできなかった。前進のため腰を浮かそうとすると風で体が浮き上がった。あわ てて再び腹這いになり岩にしがみついた。両手の腕力でいざりながら前進するしかなかった。峰の 茶屋の峠には石をコンクリートで固めた台形の標識がある。腹這いの前進にどれくらいの時間を費 やしたのかは記憶にはないが、この標識の風下にやっとのことで逃げ込むことができた。強風の恐 怖にさらされたままであったがとりあえずほっとした。風がどの位強いのかと標識の外に手を伸ば してみると、片腕だけの力では支えきれない状態であった。更に、少し先の地面に目をやると握り 拳位の石がつぎつぎと飛ばされているのが見えた。 3人が一休みしてここから明礬沢に逃げ込もうと話をしていると、避難小屋の方から1人の男性 が我々のところに逃げ込んできた。彼は目出帽子はおろか帽子もヤッケのフードも被っていなく、 ヤッケのチャックも開いたままであった。強風で吹き飛ばされてしまったのだろうか。額には怪我 をしたらしく血が付いて、蒼白な顔となり死人のようであった。自分は怪我をし、相棒の1人がい なくなってしまったと困惑の極みの顔をしていた。しかし、この烈風の中では我々にどうすること もできなかった。ここから20m位しかない避難小屋へ行くことさえできなかった。彼を一人残す ことになってしまったが、我々は意を決して明礬沢に逃げ込むことにした。標識からは追い風とい うこともあったが、一気に明礬沢への斜面に入ることができた。10mも下るとそこは昨夜降った 雪が吹き溜まり風は随分弱くなっていた。柔らかい雪の上に腰を下ろした瞬間、助かったという思 が胸にこみあげてきた。 峰の茶屋越えの悪戦苦闘は記憶にはっきりしていないが12時前後の30分間位のことであった と思う。やっと峠を越えることができたといっても、ここからもそう簡単な下山ではなかった。し ばらく下り始めると再び風が強くなってきた。先ほど休憩した場所は峠から直ぐ下なので、風があ まり廻り込んでこなかったようだ。しかし、峠から離れるに従い風が斜面に沿って走り下るのだろ う。昨夜降った雪が地吹雪となり時々周囲が見えなくなった。しかも吹き溜まったばかりの雪は足 がよくもぐり、雪下の岩にアイゼンが引っかかり何とも歩きにくかった。強い風が通り抜けるとき は近くの岩にしがみついていなければ立っていられない程であった。友人は何回か強風で押し倒さ れたとのことであった。地吹雪がひどく誰かが遅れるとお互いの姿が確認できなくなってしまうの で、お互いが確認できる距離を確保して明礬沢の林道を目指して下った。距離にしたら僅かな距離 であったが、林道までは長かった。砂防堰堤を2カ所越えてやっと明礬沢沿えの林道にたどり着く ことができた。林道に来てもまだ風は強かった。風が弱くなったのは林道が大きく右にカーブして 樹林帯に入ってからであった。林道は風が弱くなると、今度は雪が深くなった。カンジキを着ける 余裕もなく、3人交代でラッセルし林道を進んだ。峠の茶屋駐車場、ロープウェイの山麓駅を通っ て大丸の駐車場に着いたのは2時半だった。今日、峰の茶屋を越えたものゝ中で我々が一番先に下 山できたパーティと思われた。あんなにひどい条件下の峰の茶屋越えであったが、幸運にも誰1人 としてかすり傷1つせず下山できたことを3人で喜んだ。 しかし、喜んでばかりいられなかった。あの峰の茶屋の標識のところに残してきた男性はどうし たろう。彼が探すことができなかった人はどうしているだろう。まだまだ峰の茶屋越えで悪戦苦闘 している人達がいるのにちがいない。そう思い那須山岳会の大鷹さんの旅館に行って、状況を報告 した。既に大黒屋から無線が黒磯警察と那須山岳会に入っていたらしく救助隊を編成中であった。 報告の後、温泉に入れてもらい、少し遅くなった昼食をとり現実の世界に戻ることができた。 後日、知ったことであるがあの男性は無事であったとのことでほっとした。しかし、彼が探して いた女性は強風に吹き飛ばされそのまま疲労凍死したとのことであった。彼女は60才になるヒマ ラヤ登山も経験したことのあるベテランであったということだ。その他にあの日何人が峠越えをし たのかは分からないが、悪戦苦闘してみんな明礬沢に逃げ込み下山したらしい。 この週の土曜日(3月27日)、面識は全くない方であったが、我々と同じ時間帯に強風と闘い 帰らぬ人となった方の供養のためにと、再度峰の茶屋に1人足を向けた。遭難した場所と思われる 場所で線香に火を付けそっと置いて合掌した。山は気まぐれである。今日は無風状態で、どんより と曇り小雪がちらついていた。山を愛しつづけてきた方であったろうとを思うと、人の命のはかな さが残念に思えてならなかった。 [コースタイム] 3月20日 大丸(9:00)→登山口鳥居(10:00)→峰の茶屋(11:05)→避難小屋(11:20〜12:20)→ 三斗小屋(1:20〜2:10)→三斗小屋宿(3:10〜4:10)→三斗小屋(5:40) 3月21日 三斗小屋(5:10)→三斗小屋宿(6:00〜6:30)→1,792m地点(9:35〜9:55)→ 三斗小屋宿(12:00〜12:40)→三斗小屋(2:20) 3月22日 三斗小屋(8:40)→避難小屋(10:00〜10:40)→峰の茶屋→大丸(2:30) [反省] 1.大倉山敗退について ・初級の冬山と思い冬山の天気の急変を甘く考えていた。 ・森林限界を超えた雪山は篠竹の目印持参が基本であるあることを無視していた。 2.強風の峰の茶屋越えについて ・引き返す判断が全く頭に浮かばなかった。あと一日の停滞が及ぼす影響など、万一のこと を思うと仕事や費用などほんにささいなものであるが、何故か引き返せない心理状態に陥 ってしまった。これは私だけでなく、今回峰の茶屋越えをした誰もが陥った心理状態のよ うに思えてならない。今後はこの経験を十分生かしより適切な判断をしたいものだ。