奥州道中「大田原宿〜鍋掛宿」  2006/4/18

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西那須野駅7:05〜大田原市役所7:15〜大田原本陣跡7:28〜金灯篭7:37〜大田原神社
〜8:00〜中田原一里塚8:51〜棚倉追分9:11〜高野槙9:28〜練貫の一里塚10:15〜道
標10:30〜鍋掛一里塚11:49〜那珂川13:28〜浄泉寺13:47〜寺子の一里塚14:56

西那須野駅前で馬場さんと待ち合わせ、大田原市営バスで大田原市役所に着く、地元在住
の宮内さんが合流する。国道461号が昔の奥州道中なのでまずは、昔の湯道街道を辿って
奥州道中に出る。左に折れて少し行くと、「本陣 印南家」がある、当時は建坪380坪と
奥州道中では最大級の本陣であったが、今は建物も無く昔の面影はない。国道461号と国
道400号の十字路には道標を兼ねた「金灯篭」があり、「江戸、白川」の文字と几号水準点
がある。金灯篭は戦時中供出にあい、仕方なく戦後は三斗小屋宿にあった同じ形の灯篭を
設置した経過がある。街道はこの先、城下町らしく小刻みに曲がり、竜泉寺、大田原神社、
大久保木戸跡を過ぎて蛇尾川を渡る。(ここで耳寄りな話を一つ!橋を渡る前に少し戻ると
「和菓子処 木村屋」があってこの店の包装紙が「大田原城下の絵図」 貴重な絵図です
ので是非お手元にどうぞ?)橋の上から大田原城(竜城)跡を眺めると、難攻不落の感あ
り。街道は左折し、河原地区に出る。松本豆腐店の裏手に数体の道祖神が並んでいて、そ
の一つに「几号水準点」の記号があった。しばらく進むと二本松地区でコンビニ前に見落
としそうな小さい江戸から38番目の「中田原一里塚」がある。上深田を過ぎると「棚倉街
道」の追分で元禄7年建立「右たなくら、左しらかわ」の道標がある。ライスラインの十
字路を過ぎると、推定樹齢400年の「市野沢の高野槙」につく、昔は道路が低くて街道歩
く目印として旅人には重宝されたのではなかろうか。前原地区の駐車場らしき片隅に小さ
な石碑があり、良く見ると偶然にも「几号水準点」があった。この場所は江戸時代の「処
刑場跡」で「首切り山」と言われていたという。荒屋敷地区に入ると改築された「麻疹地
蔵堂」と数対の石碑が並んでいたのでお堂の前で休憩をする。間もなく練貫の十文字を横
切るが、この手前に「練貫の一里塚」があったという。後藤家の精米所が一里塚跡だとい
うが精米所は無かった。練貫地区の外れに永代常夜灯の石灯篭を兼ねた道標があり「右奥
州海道、左原方那須湯道」が刻んであった。隣の十九夜塔の台座には「几号水準点」の印
を見つけることが出来た。六町歩入口を過ぎると「明治天皇御駐輦記念碑」が建立されて
いた。「輦(レン)は(輿こし)又は人が引く車のこと」。羽田沼入口を右にみて西野間地
区に入る。芭蕉主従は黒羽からこの西野間にでて那須に向かったとされている。樋沢八幡
宮の「葛篭石」の看板につられて急な階段を登ると、大きな石が二つ鎮座していて説明書
きには「八幡太郎義家愛馬蹄鉄跡の石」と背負う「篭」に似ているから命名した「葛篭石」
がある。「伝説の大うなぎ、樋沢の大沼」入口の看板を過ぎると、江戸から四十番目の「鍋
掛一里塚」に到着する。鍋掛神社の急な階段を登ると参道脇に塚がある。元来は11m東に
あったというが、道路拡張に伴い移転したという。間もなく鍋掛十文字で渡った左手に「清
川地蔵尊」が祭られている。鍋掛宿は整備がすすみ、宿の雰囲気を出そうと歩道は広く、
ガードレールの代わりに「石柱」が並んでいる。宿の中ほどにある「八坂神社」の境内に
は「芭蕉の句碑」「野を横に馬牽むけよほととぎす」がある。神社の隣が鍋掛公民館となっ
ており、参道の奥が「正観寺」で入口のシダレザクラが見事である。旧街道は宿を真っ直
ぐ進んで左に折れ、大きな馬頭尊の石碑から桝形に那珂川の河原に下りたと地元の方の話
を聞いた。その馬頭尊の台座にも几号水準点の記号があった。竹の茂った崖の中ほどにそ
れらしき道を見つけることが出来る。那珂川を渡るには徒歩で渡る、仮橋を渡る、船で渡
るなど時代によって変化したようである。現在の昭明橋の橋桁付近には、船止めした箇所
があって、「橋銭場ハッセンバ」と呼ばれていたという。昭明橋の中ほどから那珂川を望む
と河岸段丘の高さと、水量の多さで渡渉の難渋さが想像できる。橋を渡ると「越堀宿」で
右に折れると河原に下りることが出来る。下りた所に川番所があって、「黒羽領境界石」が
立っていたが、今は浄泉寺境内に移設したそうである。越堀宿の成立は参勤交代時、伊達
の殿様が川止めに会い、仮小屋を建てたのが始まりだという。「仙台屋」の屋号はその名残
なのだろうか?宿の中ほどに浄泉寺があり、「明治天皇御膳水」の碑と先ほど話した「境界
石」がある。台座に几号水準点が刻まれている。枡形に曲がった道を進むと分岐になり、
左は芭蕉が歩んだ那須への湯街道。右に登って行くのが奥州道中である。二十三坂七曲と
はよく言ったものだが、杉渡土(すぎわたど)から富士見峠を越えて芦野までは難所の一
つであろう。富士見峠は知らぬ間に通り過ぎてしまうが、昔は街道も山の上のほうをにあ
ったろうから、もしかしたら富士山を眺めることが出来たのかもしれない。「奥州道中寺子
一里塚の里」の看板は分譲地のものだが、やがて寺子十文字に着く。小学校跡地に寺子一
里塚があった、以前は50mほど先のところにあるものを移設し、一里塚公園として整備さ
れたものだが、味気ない思いがした。隣には富士見峠から移設した安永4年の道標があり、
左側に「日光山十六里、江戸四十一里、水戸二十二里、八溝山六里」右側に「湯殿山六十
六里、仙台五十里、会津二十四里、那須湯元五里」が刻まれている。今日の行程はここま
でとしたが、丁度「寺子のエドヒガンザクラ」が満開ということで見物をする。樹齢250
年は一見の価値有り。帰りは那須塩原市営バスで黒磯駅に出て帰る。