奥州街道その3    《喜連川宿〜佐久山宿〜大田原宿》 平成18年3月27日

p01.jpg p02.jpg p03.jpg p04.jpg p05.jpg p06.jpg p07.jpg p08.jpg p09.jpg p10.jpg p11.jpg p12.jpg p13.jpg p14.jpg p15.jpg p16.jpg

喜連川台町7:38鶴ヶ坂8:26南和田一里塚8:26明治天皇碑9:45一里塚10:17佐久山宿
11:47箒川岩井橋12:30滝沢一里塚跡12:42町初碑13:41陣屋跡13:56一里塚跡14:52
大田原宿薬師堂15:16

片岡駅前から朝「7.05発」烏山行きの町営バスが走っているので、喜連川まで乗り「台町」
で下車。台町集会場前の道標「左在郷道、右奥州海道」(享保9年1724)を確認する。在郷
道を行くと以前歩いた「原街道」の鷲宿に至る。交差点の細い旧道が今日の出発地となる。
道は直ぐ鍵の手に左に折れるが、ご用堀と同じく綺麗な水が流れている。間もなく内川の
堤防に出て、「金竜橋」を渡る。田町を過ぎると「鶴ヶ坂」の長い登り道になる、草に埋
もれた「南無阿弥陀」の石碑をみる。葡萄沢公園を過ぎラフォーレ喜連川の入口を過ぎる
と右に馬頭尊が幾つか並んでいる。やがて「ヤマギシズム農場」が現れ、県道114号線は右
に分かれ、旧街道は農場前の細い砂利道を進むようになる。農場と雑木林に囲まれた静か
な道を行くと、アルミ工場に出る。工場を過ぎると左は牧草畑、右は雑木林が続くが、林
の中に水路のような人工的な掘が現れる。しばらく行くと林の中にゴミ捨て場と化した奥
に小さな盛り土を見るが、これが「南和田の一里塚」である。かろうじて右側が残ってい
るが、この堀が旧街道跡だという。ここから街道跡を藪をかき分け辿っていくと畑にでた。
細い十字路に石碑が並んでいて、「飴屋六造記」なるものがあった。人家が近づいてくる
と、藪の中に石碑が一つ倒れていたので起こして見ると、「安政5年」の文字が読み取れた
が表は判読できない。県道に合流したところで、「軽トラ」が止まった「ヤァーこんにち
は!」と声をかけてきたのが岳友会のO君であった。「椎茸」出荷の帰りだと言う、世間
は狭いものだ、この先で石工のT君の姿を見るのだから?「さくら市ほほえみ保育園」を
過ぎると立派な長屋門の家が二軒並んでいる。郵便局の敷地内にも由緒あるような屋敷が
ある。ここは肥沃な土地を持つ裕福な村なのだろう。曾根田の交差点を右に折れた近くに、
「明治天皇御小休之際御膳水」の碑がある。江川を渡り高台から見下ろしている小さな地
蔵様を過ぎると「源氏ぼたるの里」入口がある。「喜連川幼稚園」を右にみて行くと「明
治天皇御休所」の碑とゲートボール場の広場の隅に「几号水準点」の記号があった。引田
部落に入ったので一里塚の位置を聞いたが判らないと言う。「手塚家」と言うのですがと
訪ねるとそれなら「馬立」のところだと教えてくれた。手塚家の納屋の前に「引田の一里
塚」があった。防空壕に利用したので崩れかけているが残っていた。若林に入ると丁字路
があり、「与一の里銘木、高久家のツツジ」の看板があった。古木が多くて花咲く時は素
晴らしいですと御主人が説明してくれた。「琵琶池」入口のところに金網に囲まれた馬頭
尊が並んでいたが、もしかしたら夜遊びするので囲ってあるのかもしれない。佐久山前坂
の交差点には佐久山で有名な「薯蕷饅頭」があるので一つ試食する、お茶を入れていただ
き、疲れた身体には甘いものは最高。前坂を下ると数多くの石碑があり、観音堂内には几
号水準点もあった。旧道を桝型にいくと県道48号に合流する。古い薬屋の欅の看板に「運
用膏」と書かれていたが「戊辰戦争」の時にはかなり商売繁盛したという。丁度昼時であ
ったので、行列の出来る有名な和気精肉店の「コロッケ」を買い求める。町の真ん中に
「那須の与一」の武者絵の描いたトイレ(厠)と新しく建てた「奥州道中佐久山宿」の石
碑がある。歩く旅にはトイレの存在が非常に有難い。細い路地を入ると「大日堂と大欅」
を見ることが出来るが見事な大木である。「勘兵衛饅頭」に釣られて小島屋に入るがここ
でもお茶を馳走してくれたが饅頭は美味しい。郵便局付近が「井上家御本陣跡」らしいの
で写真を一枚撮る。
実相院の山門の屋根瓦は矢板市平野産の平野石を使用していると聞いていたので寄ってみ
る。苔むした風情が凄く良い。偶然にも境内入口の石碑に「右奥州、左日光」の道標を見
ることが出来た。これはこの先の矢板への分岐の所にあったと解釈すべきであろう。佐久
山には私の中学の恩師が健在なのだが、今日は留守のようである。街道が大きくカーブす
ると左に「正浄寺」があり、境内の一隅に几号水準点があった。間もなく渡る川は「箒川」
で上流に高原山が望める。「陸奥日記」によると、高原山には金が出るという下りがあっ
て、「ほうき川と聞いて、「塵をだに すいに流れや ほうき川」なる一首が載っている。
岩井橋を渡ると「回虫博士の高橋医院」で娘さんはたしか?「サザエさんのカツオ」の声
優さんだった。滝沢地区で「慶運院」の近くに「滝沢一里塚」があったというので、墓を
探したら墓の門柱に「慶運院」なる文字を見つけたがお寺は無かった。一里塚跡は何処な
のだろう?ライスラインを横切ると「親園八木沢」地区で宿場が出来たのは寛永年間であ
るという。国井氏宅に珍しい自然石の「町初めの碑」がある。国井氏の反対側には「蒲蘆
(ほろ)の碑」がある。ここにはかって幕府直結の陣屋が置かれて那須郡と塩谷郡の一部
を管理し代官山口鉄五郎の手代が常駐し代官の善政をたたえた碑がホロの碑であるという。
陣屋跡はここから南に面したところにあって、「陣屋跡」の石柱が出来ていた。又その近
くの小川の橋が「陣屋橋」と言われている。付近の方に聞くと古い街道は北よりの田圃の
中にあったというので、戻り直して曲がりくねった畦道を歩いてみると其処かしこに、石
仏が幾つも安置されている。街道に戻って真っ直ぐ北に向かう道は戦争前までは3kmに
わたって松並木が続いて居たが、松根油を採るために伐採したという。 旅人には日陰に
なったり那須下ろしの風除けになったり惜しいことをしたものだと思う。地名の六本松に
は「一里塚」があったというが開発が進み場所は定かでないが「浅野八幡宮」付近にあっ
たのではないかと言われている。大田原宿に近くなったところで、車が一台止まった?
中から街道歩き仲間M君が声をかけてきたので、薬師堂で落ち会う約束をして分かれる。
新田木戸跡を過ぎると日光北街道の追分で鍵の手に右に曲がる。昔は溜池が在ったという
が程なく薬師堂に到着。