奥州道中
奥州街道は、江戸を基点とする五街道の一つで、正式には奥州道中と呼ぶが普通は奥州街
道と呼んでいる。区間は江戸より白河までの街道で、途中宇都宮までは日光道中(街道)
をも兼ねていた。宿駅は千住、草加、越谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木、
間々田、小山、新田、小金井、石橋、雀宮、宇都宮、白沢、氏家、喜連川、佐久山、大田
原、鍋掛、越堀、芦野、白坂、白河の27次である。奥州道中は元和三年(1617)東照宮完
成とともに、日本橋から宇都宮を経由して日光に至る街道は、日光道中と呼ばれるように
なり、宇都宮から以北、白河までの10次を奥州道中と呼ぶようになった。この奥州街道の
本街道というべき白河までの街道は他の五街道と同じく幕府道中奉行の管轄下におかれて
いた。これは「白河の関」が幕府の重要な防衛の位置としていたからである。
《奥州道中 宇都宮宿から氏家宿  平成18.2.11》
日光街道、奥州街道の追分(8:22)竹林の一里塚、(9:33)白沢宿(11:57〜13:08)
三本杉(13:40)阿久津河岸(14:23)氏家駅(15:56)

 宇都宮小幡郵便局の角が日光街道と奥州街道の追分である。昔は伝馬町には「荷物貫目
改所」が置かれていた。北側には「本陣上野家」があった。付近は問屋場であるため宇都
宮では一番の賑わいであったという。清住通りを少し入ると、今も土蔵作りの商家「上野
商店」が残り、当時の様子を偲ぶことが出来る。奥州街道は大通りを東に進んで釜川を渡
って次の角を右に曲がる。オリオン通りで左に折れ二荒山神社を左に見て今小路通りに出
たら左に曲がり一番町通りに入っていく、右手の「おしどり塚」を過ぎると大通り3丁目
上河原交差点を横断して「田川」の幸橋を渡る。博労町交差点の「篠原家」土蔵作りの家
は改装中で残念ながら見ることは出来ないが、今話題の「東横イン」の看板が大きい。
ここからが奥州街道入り口の第一歩を踏み出すことになる。白河まで21里18町14間
(85.1km)まず第一の目標は竹林の一里塚、竹林交差点を過ぎて間もなく豊郷南小、こ
の南側付近に日本橋から28番目の一里塚があったらしい。松並木が続いた白沢街道随一の
生き残り「松の木」が一本昔の名残をとどめる。その手前の道を右に曲がると「白山神社」
がある。その裏手が「根来塚跡」と言われる。幕府から差し向けられた「根来100人衆」
を処刑して胴を埋めたところと言われる。街道に戻ってバス停「地蔵前から」栃木銀行裏
の道を入ると「首切り地蔵」がある、罪人の処刑場跡と言う。宇都宮環状線を渡ると道路
が急に狭くなる、歩道が無いのに行き交う車は多く歩行には十分注意が必要である。海道
町交差点を過ぎると整備された歩道となる。花咲く頃には散歩コースで賑わいそうである。
この付近に29番目の海道新田の一里塚があるはずだが開発されて面影はない。稚児が坂を
ゆるく登って行くと高崎製紙工場の前を通過、Y字路を右にいくと河内町役場がありバス停
に「白澤宿江戸から30番」の看板がある。下る坂は「やげん坂」薬の調合に使用する舟形
の「薬研」に似ているから付けたと言う。坂の途中に小屋があり、白沢小3年生の張り紙
があった。「これは江戸時代のトイレです、見てください」と但し書きがあった。道路を
鍵の手に曲がると「白澤宿」の中心に入っていく。水路があって水車がコトコトと廻って
いる。各家々には「屋号」が表示してあって宿場の雰囲気そのものである。本陣は宇加地
家で立派なお屋敷である。水路の脇のベンチには赤い毛氈が敷いてあるのでしばし休憩す
る。
ここで中岡本に住む昔の同僚S君と待ち合わせ10年ぶりの再会を果たし、昼食がてら下
げ橋の「平の将門」の首塚と天然記念物の三又カヤなどを案内してもらう。
午後は白澤宿から九郷半川を渡り三本杉の一里塚に向かう。鬼怒川が氾濫するたびに街道
が変わったというので、定かな道ではないのだが堤防に向かって歩く。途中で散歩中の方
と立ち話、知人の名前が出て吃驚!一里塚を見たことが無いと言うので一緒に歩くことに
する。水田の中に赤い鳥居を背にした農家が三本杉(一里塚跡)なので、近くまで行って
写真を撮る。堤防を越えると鬼怒川の渡し場の道標が建っていて対岸には県民ゴルフ場が
見える、歩道の無い阿久津大橋を無事に渡って阿久津河岸に入る。鬼怒川を渡るには渇水
期は仮橋で渡り、夏場は船で渡ったという。私が子供の頃、羽黒山の梵天祭に出かけると
き大宮付近の鬼怒川を一夜限りの仮橋で渡った記憶を思い出す。(渡り賃は10円だった)
阿久津河岸は会津中街道、原街道、会津西街道などを利用して廻米その他の物資の集散地
で入船千艘、出船千艘と言われるほど賑わったという。若目田家が取り仕切り最盛期には
倉庫群が28棟もあったというから凄い。大橋を渡り直ぐ左に曲がると「船魂神社」がある。
阿久津河岸の賑わいを偲ぶことが出来るほど素晴らしい社殿である。境内には常夜灯を兼
ねた道標「右江戸道、左奥州道、此方河岸道」寛永2年(1849)がある。「小荷駄道」を
進むと高尾神社に出る、神社前の道は「牛街道」「米積街道」ともいわれ原街道に通ず。
高尾神社裏手の二十三塔の台座には珍しい几号水準点がある。奥州街道を進むと右手に森
があり、ここは「そうめん地蔵」といわれ日光の「強飯式」に由来すると言う。常夜灯に
は会津、福島など定飛脚の名前をみる。勝山城址前から道標に導かれて街道は右に曲がる。
時間があるときには勝山城址内の「ミュウジアム氏家」に寄ると良い。氏家宿の資料など
が展示してあるので一見の価値はある。田圃の中の道を行くと「国道4号線」を横切る、
信号が無いのでご用心。左に「お伊勢の森」を見てJR宇都宮線の「旧奥州街道」の踏切
を渡ると丁字路になる。氏家宿の入口で角に「右江戸。左水戸、かさま、下たて、下つま」
の道標がある。ここは「木戸番所」と一里塚があったというが今は跡形もない。角から二
軒目が私の従兄弟の家で裏手の方に「今宮神社の前身のお社跡」がある。国道293号線を
横切ると「黒須病院」で向い側が「平石歯科」本陣である。庭に「従是西宇都宮領」の石
碑が残っている。西導寺の入口を過ぎ信号を左に曲がると氏家駅到着。
宇都宮宿〜氏家宿 31.270歩