奥州街道その2 《氏家宿〜喜連川宿》 平成18年3月20日
氏家駅8:35〜滝沢家8:58〜松山新田一里塚9:56〜弥五郎坂10:30〜連城橋11:15〜
宿内の一里塚11:50金竜橋12:24 氏家〜喜連川19.558歩
氏家駅から「西導寺」を右に見ていくと、奥州街道に突き当たる。道路を渡ると「石田
屋」鯛焼きの看板に釣られて寄り道するが、鯛より小ぶりの鮒焼き(90円)を一個頬張る。
「光明寺」を過ぎると上町交差点で左に曲がった先に「琴平神社」があり、馬頭尊の台座
に「東奥州路、南江戸路、西羽黒路」が刻んである。位置的に見ると昔は上町十字路にあ
ったものを移動したものと思われる。街道に戻って少し県道48号を行くと、「フルーツ、
サカイヤ」と「カスヤ洋品店」の間に細い路地があるが、ここは「会津中街道、会津西街
道」の追分である。次の点滅信号のある角に「たのや洋服店」と「酒店おかむら」の間の
道が「原街道」の追分となる。五行川を渡ると櫻野で大きな門構えの家並みが続く、庄屋
「村上家」の隣が「瀧澤家」(県指定文化財)で望楼が目立つ。大型スーパーのある交差
点を渡ると昔は松並木が300本も続いたと言う地名だけが残った並木である。第二次世界大
戦で松根油を採る為に切り倒された歴史がある。松山新田に入ると「坂本家」の庭に江戸
から32番目の一里塚があって小さな祠が祭られている。余談になるが、私の父は明治35
年松山新田(昔は熱田村)生まれで、生家の隣に駐在所と人力鉄道(氏家と喜連川を結ぶ)
の停留所があって、引込み線の十両ほど並んだ貨車で遊んだと言う。市の堀を渡ると右に
大黒天が祭られ、台座に几号水準点が彫られてある。街道は真っ直ぐ弥五郎坂を上ってい
く、途中右に階段を登ると「弥五郎殿」がある、説明書によるとここは五月女古戦場で宇
都宮勢と喜連川勢が戦い、宇都宮尚綱が討ち死にした謂れがある。ゴルフ場入口を過ぎる
とやがて奥州街道の道標が建つ旧道入口で鎖がかかっているが乗越して行く。左に新道を
行くと河東碧梧の「坂を下りて、左右に藪あり栗落つる」の句がある。下れば早乙女で水
田の中を進むと荒川に突き当たる。連城橋の袂に「「右江戸道、左下妻道」の道標がある。
桜並木の道は明治時代の人力鉄道路の新弥五郎坂である。桜の咲く時期は素晴らしく、さ
くら市の名前もここから引用したようである。荒川を渡った左に「菓子処たなかや」あっ
たので寄り道をする。推薦の「狐もなか」を注文して写真を撮っていたら、鮎最中をオマ
ケしてくれた。城の長屋門の「さくら市喜連川支所」の裏手が喜連川城址でケーブルカー
が広場まで運んでくれる。お丸山公園には展望塔があり喜連川城下を始め日光、那須の山
々など一望できる。南側は武家屋敷の名残の「寒竹囲い」と用水路の「御用堀」で清流に
鯉が泳いでいる様など雰囲気は素晴らしい。本陣は上野家であるが今は「道の駅本陣」の
看板が出ており、食事を取ることが出来るようだ。宿内の野沢金物店付近が江戸から33番
目の一里塚跡があると言われるのでその付近を一枚撮る。「黒田屋菓子店」の「護美錦」
に釣られて又、寄り道をする。「護美錦」は有名な皐月の名花で喜連川の殿様が作ったと
言われている。皐月の花形に粒あんが入ったものが一押しのお勧め品。宿外れの台町に
「右奥州海道、左在郷道」の追分道標がある。在郷道を行くと「原街道」の鷲宿から片岡
に通じている。街道は信号の手前を右に入ると金竜橋にでる。喜連川は以外と交通の便が
悪く時刻表を見ると、午後1時台の氏家駅があるので、今日はここで打ち切りとする。
専念寺前からさくら支所まで、武家屋敷跡の細道を辿ってバス停に向かう。