小林 充 著
題 名 | 掲載日時 |
阿久津河岸、氏家宿 | H14/11/26 |
三斗小屋宿から麦飯坂を辿る | H14/6/20 |
大峠から麦飯坂下まで | H14/6/18 |
矢板から百村まで | H14/3/2 |
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会津中街道 を訪ねて 会津中街道は氏家を起点として、矢板を経て難所 大峠を越え会津若松まで 31里10町52間(約128q)の街道である。会津中街道のそもそもの原因は 天和3年(1683)の大地震の際、鬼怒川上流の戸板山が崩れ、会津西街道(国道121号) が交通止になったからである。交通不能になると、それまで運搬していた江戸廻米が 滞るようになってしまった。この様な事情から新道開削が計画され、元禄8年(1689)に 完成されたのである。廻米は氏家を経て阿久津河岸に集積され、ここから船で江戸に 送られた。阿久津河岸には奥州街道 会津西街道、原方街道の物資も集積されており、 入船千艘、出船千艘で賑わったという。 阿久津河岸 鬼怒川の阿久津大橋(氏家町上阿久津)の堤防を500Mほど南に下がると、「川の一里塚」 の記念碑が建立されている。昔はここに鬼怒川の渡しがあって3月1日から10月30日ま では、舟渡 一人10文 渇水期の11月1日から2月末までは仮橋があったという。 現在 阿久津河岸の賑わいとして残っているとすれば、船魂神社だろうか? 仮屋の中の極彩色に飾られた彫刻は、素晴らしい一語につきる。此の境内にある常夜灯の 基石には、右、 江戸道 左、奥州道 此方、河岸道の道標がある。 此の神社の先に鬼怒川沿岸の水難をおそれて祭った、浮島地蔵があり、今を盛りに 銀杏の実を拾う人たちが居た。曲がりくねった小道を行くと、国道4号線に出た。 国道を渡ると「高尾神社」の境内で石の階段の脇に、太い木があり歴史を感じさせてくれ る。境内の所に与作稲荷の道標があるので寄り道をする。 案内には河岸の衰退と共に、境内の賑わいも遠い昔の物語となったと書いてありました。 高尾神社に戻り、坂を登ると、江戸から31里の一里塚があったと言う場所になる。 間もなく右手に森が見えてくる。ここは「勝(将)軍地蔵」と呼ばれ「堂原とかそうめん地 蔵」共 呼ばれている。境内には「飛脚問屋などの珍しい奉納灯籠」などがあると 言われている。左手の森は勝山城趾で土塁や空堀がよく保存されていて、 土塁から一望する日光の山々と、鬼怒川の眺めは一見の価値有りと思います。現在は公園 となっているので、休憩に適した所です。。 奥州街道は公園入り口の反対側の東京電力資材置き場の裏の道を行く。 氏家宿 国道4号線のバイパスを渡るが信号も横断歩道も無いので、慎重に渡ろう。 間もなく左に「お伊勢の森」が見えてくる。銀杏の木と朽ちかけた小さな祠があるだけの 「お伊勢の森神明宮」名前負けして淋しい、昔は森林が広がって居たのだろうに? 宇都宮線の「旧奥州街道踏切」を渡る。東京から126qの地点である。 間もなく 氏家町古町で水戸街道の分岐となる。右、江戸海道 左、水戸かさま 下だて 下づま の道標が立ち奥州街道は左に曲がる。 宿の入り口には木戸番所が設けられ ていたという。 氏家宿は寛永4年(1627)に奥州街道が開通、元禄8年(1695)に会津中街道が開かれて 物資の集散地となり庶民の往来も多くなり繁栄した。 安永3年(1774)の旅籠の数は35軒を超えたと言われている。 宿に入ると左手に「本陣」平石家がある。現在は歯科医院と形を変えているが 庭には「従是西 宇都宮領」 と言う石柱が立ち、本陣の威厳を漂わせている。 氏家駅入り口の信号過ぎてから次の信号十字路で、奥州街道は右に曲がる。 曲がってから直ぐに「スーパーさかいや」の路地を左に曲がる。 この路地が「会津中街道」の起点である。 会津中街道は、氏家から福島県会津若松まで128qを 18の宿場で結んでいた。 宿場は氏家、乙畑、川崎、矢板、山田、石神(石上)、横林、高林、百村、板室、三斗小屋、 大峠を越えて野際、松川、弥五島、小出、桑原、小塩、面川である。 路地を少し行くと、氏家町役場前に出る。会津中街道は道を斜めに横断して 県道66号線にはいる。左の氏家小学校は「御前城趾」があった場所に立てられたという。 正面に見えるお社は今宮神社で銀杏の黄色が遠くから目に付く。 銀杏の木は栃木県名木百選となっており、ライトアップされると新聞に報じられている。 今宮神社を過ぎると、国道4号線に出る。国道を横断して馬場新田の家並みを行く。 家並みが切れると水田が広がる穀倉地帯となる。耕地整理の進んだ所では昔の街道の 名残はない。会津中街道は国道4号線とJR宇都宮線の中ほどにあったという。 国道の喧騒を離れて水田の中の道を歩くことにする。 色ずいたイナゴが跳ねる。 分譲住宅の近くまで来たら国道を行くが、間もなく(かまぼこ兵舎 )のような 鶏舎小屋が見えたら、その前の細い道に入る。この付近は上野原秣場と言われており 昔は屋根の材料や家畜の餌などを供給する大切な原野だったのだろう。 右から来る舗装道路は、長久保街道で、このあたりに一里塚があったという。 広域農道グリーンラインを横切り田圃道を行くと、市の堀用水に行き当たる。 用水の対岸に炭焼き窯があるが、その窯の 左の方に細い農道があるが、 是が会津中街道である、この道に行くには一度国道に出てから又 炭焼窯に戻るしか 方法はない。昔はここに川崎街道橋が架けられていたという。 国道のバス停には、13人橋とあるが、少し気になる言葉である。 会津中街道も途中ちょっと途切れるが、道型は残っており国道に出られる。